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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1956年3月20日 国会請願

被爆者の無料治療 直訴

 1956年3月20日朝。前日に広島駅を急行列車でたった原爆被害者たち約40人が、東京駅に着いた。広島市での初の原水爆禁止世界大会から7カ月。この日は、大会翌月にできた原水爆禁止日本協議会が呼びかけた「国会請願デー」で、一行は被害者の援護を自ら訴えるため上京した。

消えない願い

 報道陣も詰めかけた東京駅で当時40歳の団長、藤居平一さんがあいさつした。「私たちの背後には今なお原爆症の痛手におののく29万の人々と30万の地下に眠る人々の消えることのない願いがあるのです」

 藤居さんは広島で原爆被害者救援委員会の幹事長を務め、被害者の組織化に尽力。2日前の18日には自らが中心となって広島県全域から参加を募り、初の原爆被害者大会を実現した。会場の千田小(現中区)に約300人が集まり、請願の内容を決めた。

 そこで掲げた救済策の一つは、治療費の全額国庫負担。国が始めた戦争の末に被爆した人が白血病をはじめ「原爆症」に苦しむ一方で、国が治療に責任を持つ制度はなく、費用が苦境に追い打ちをかけていた。発病の不安を抱く人の健康管理なども含め「原爆被害者援護法(仮称)」制定を求めた。

 広島からの一行は被爆10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんたちの遺影を携え、3月20日には衆参両院議長たちと面会し、請願書を提出。鳩山一郎首相にも要望した。翌日、地元広島選出の衆院議員で4年後には首相に就く池田勇人氏の私邸も訪ねた。

 参加した阿部静子さん(98)=南区=は、仲間と共に被爆後の悲惨な実情を池田氏に話した。熱心に耳を傾けているように見えた池田氏は、聞き終えると、胸に刺さる一言をこぼした。「日本はアメリカに弱いからね」

組織化の助言

 阿部さんは「私らを傷つけた国に気兼ねして、今まで10年も何の手も差し伸べず、ほっとかれたのかと思って、悲しかったです」と今振り返る。ただ、「知恵を授かった」とも。「バラバラで来られても力がない。今度来る時は組織をつくって来なさいと、池田さんに言われたんです」

 住んでいた今の海田町に戻ると、妻と娘を原爆で失った桧垣益人さん(90年に94歳で死去)と夜な夜な集落を回った。地元の被害者の名簿を作成。やがて町原爆被害者会につながる。

 並行して、県内の原爆被害者組織の大同団結が進んでいた。広島市だけでも「原爆被害者の会」や「八・六友の会」など複数の組織があり、県北や県東部にも地域組織が存在。5月27日、藤居さんが主導して基町(現中区)のYMCA講堂で新たな組織の結成大会が開かれた。

 名称は「広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)」。各地の団体の代表者ら約120人が集まった会場に、「原水爆禁止運動の促進」や「原水爆犠牲者への国家補償」と書かれた垂れ幕が掲げられ、原爆被害者援護法の成立を目指す方針などを決めた。

 大会にはすでに組織があった愛媛県、6月に結成を控える長崎県の被害者も参加。日本原水爆被害者連合(仮称)の設立が議論され、当面は長野を加えた4県で被害者運動を進める方針を申し合わせた。8月には、より全国的な組織の発足をみる。(下高充生)

(2025年3月21日朝刊掲載)

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