反骨の詩人 「原爆と女性」原点に 堀場清子さんを悼む 米占領下の検閲調査にも力
25年3月21日
詩人堀場清子さんを思う時、いつも「反骨」という言葉が頭に浮かぶ。おっとりした口調から発せられる鋭く厳しい言葉にいつも身が引き締まった。被爆体験とフェミニズムを原点に、弱い者を犠牲にする権力に目を光らせ、ペンであらがう人だった。
親しく言葉を交わすようになったきっかけは福島第1原発事故。堀場さんは「いのちの危機」と捉え、刊行予定の自身の「全詩集」に核と人類の歴史をたどる叙事詩「またしてもの放射能禍」を加える。あとがきは数ページに収まり切らず、562ページに及ぶ別冊に。千葉県の自宅を訪ねると「私の中でヒロシマとフクシマが重なり爆発した」と半生を語った。
母親の古里緑井村(現広島市安佐南区)で生を受ける。そこで祖父が医院を営んでいた。東京で育つが、疎開中の緑井で8月6日を迎えた。爆心地から約9キロの医院に次々運ばれる瀕死(ひんし)の負傷者を救護し後日広島市内に入った。戦後早稲田大を卒業し、共同通信社勤務を経て創作に専念する。
表現は詩の枠にとどまらなかった。高群逸枝や「青鞜」研究など女性史分野でも業績を残す。社会評論も多く手がけた。
もう一つの大きな仕事が、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の原爆文献調査である。夫の仕事に伴い、2度暮らした米国では図書館に通い詰め、占領軍による検閲ゲラを調査。実態を掘り起こした。「加害国が原爆体験の表現をどう検閲したか、ギロギロ見てやろうと思った」そうだ。
「私の反骨心は子ども時代から」だとも聞いた。日本が戦争に向かう時代に生まれ「女が歓迎されない」空気を感じ取って育つ。原爆に遭った少女は、責任を問わぬ戦後日本の体質に、すでに冷徹な目を向けていた。
被爆体験を語るたび、「あの地獄を自分で見た人と見ていない人との間には越えられないクレバスがある」と原爆の表象不可能性を訴えていた。その一方、自身が体験していない他者の痛みに想像力を駆使して迫った。米軍基地問題を巡り、沖縄の歴史を軽んじる政府に抗議の声を上げ、勉強会開催にも奔走した。
広島再訪を計画していた矢先コロナ禍に。そのうち体調が悪化し移動が難しくなった。それでも電話をすればソプラノの優しい声が返ってきた。私が弱音を吐くと「50代なんてまだ青春よ」と𠮟咤(しった)した。至言をもっと聞きたかった。(論説委員・森田裕美)
◇
堀場清子さんは1月10日、94歳で死去。
(2025年3月21日朝刊掲載)
親しく言葉を交わすようになったきっかけは福島第1原発事故。堀場さんは「いのちの危機」と捉え、刊行予定の自身の「全詩集」に核と人類の歴史をたどる叙事詩「またしてもの放射能禍」を加える。あとがきは数ページに収まり切らず、562ページに及ぶ別冊に。千葉県の自宅を訪ねると「私の中でヒロシマとフクシマが重なり爆発した」と半生を語った。
母親の古里緑井村(現広島市安佐南区)で生を受ける。そこで祖父が医院を営んでいた。東京で育つが、疎開中の緑井で8月6日を迎えた。爆心地から約9キロの医院に次々運ばれる瀕死(ひんし)の負傷者を救護し後日広島市内に入った。戦後早稲田大を卒業し、共同通信社勤務を経て創作に専念する。
表現は詩の枠にとどまらなかった。高群逸枝や「青鞜」研究など女性史分野でも業績を残す。社会評論も多く手がけた。
もう一つの大きな仕事が、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の原爆文献調査である。夫の仕事に伴い、2度暮らした米国では図書館に通い詰め、占領軍による検閲ゲラを調査。実態を掘り起こした。「加害国が原爆体験の表現をどう検閲したか、ギロギロ見てやろうと思った」そうだ。
「私の反骨心は子ども時代から」だとも聞いた。日本が戦争に向かう時代に生まれ「女が歓迎されない」空気を感じ取って育つ。原爆に遭った少女は、責任を問わぬ戦後日本の体質に、すでに冷徹な目を向けていた。
被爆体験を語るたび、「あの地獄を自分で見た人と見ていない人との間には越えられないクレバスがある」と原爆の表象不可能性を訴えていた。その一方、自身が体験していない他者の痛みに想像力を駆使して迫った。米軍基地問題を巡り、沖縄の歴史を軽んじる政府に抗議の声を上げ、勉強会開催にも奔走した。
広島再訪を計画していた矢先コロナ禍に。そのうち体調が悪化し移動が難しくなった。それでも電話をすればソプラノの優しい声が返ってきた。私が弱音を吐くと「50代なんてまだ青春よ」と𠮟咤(しった)した。至言をもっと聞きたかった。(論説委員・森田裕美)
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堀場清子さんは1月10日、94歳で死去。
(2025年3月21日朝刊掲載)