[ヒロシマドキュメント 1946年] 3月20日 広島市報の発行再開
25年3月21日
1946年3月20日。広島市は被爆後初めてとなる「市報」を発行した。現在の広報紙の役割を担い、32年に創刊。「市民と市政との連鎖たらしめ諸君が市政の実情を理解せらるゝの便に供せん」と月に1回程度発行していたが、一時途絶えていた。
「復活号」は手書きで9ページ。4月10日に控える戦後最初の衆議院議員総選挙を取り上げた。選挙法の改正で20歳以上の男女が投票権を得た初めての選挙でもあった。
木原七郎市長は「総選挙ニ於ケル本市大手投票区ニ於テハ自ラ其ノ投票管理者トナリ」と報告。30の投票区と住所区分、投票管理者たちの名簿を一覧で示した。「隣組さそひ合はせて」「新日本築くんだ」などの市民が作った標語も添えた。
ほかには、連合国軍総司令部(GHQ)の指示により4月に予定していた人口調査を案内。建物疎開跡地の利用について、市の許可がない限り立ち退きを命じ、「本市復興事業施行上支障ナキ範囲ニ於テ農耕ノ目的ニ使用ノ場合ハ差支ヘナシ」と知らせた。
市の復興局に所属していた小野勝さんは、80年刊の著書で市の復興事業を巡り「遂行には内外の理解特に市民の協力を必要とする」との考えから、同局管轄で市報を再開したと振り返る。各課には資料係を置き、新聞社などへの広報にも努めたという。
市報の発行は続き、4月は戦災復興費5万3479円を含む961万4114円の46年度予算を紹介。歳出には配給諸費や孤児集団教育費も盛り込まれた。歳入のうち市税は、149万3063円を見込んでいた。「辞令」の欄では、浜井信三助役が商工、農漁各課長の兼務を外れた一方、臨時人口調査部長の兼務を命じられていた。復興局建設部長などの人事も載った。
7月には市長名で食糧不足の懸念を伝え、田舎に土地がある市民は一時的に農村の増産に協力するよう呼びかけた。「節米」も求めた。(山本真帆)
(2025年3月21日朝刊掲載)
「復活号」は手書きで9ページ。4月10日に控える戦後最初の衆議院議員総選挙を取り上げた。選挙法の改正で20歳以上の男女が投票権を得た初めての選挙でもあった。
木原七郎市長は「総選挙ニ於ケル本市大手投票区ニ於テハ自ラ其ノ投票管理者トナリ」と報告。30の投票区と住所区分、投票管理者たちの名簿を一覧で示した。「隣組さそひ合はせて」「新日本築くんだ」などの市民が作った標語も添えた。
ほかには、連合国軍総司令部(GHQ)の指示により4月に予定していた人口調査を案内。建物疎開跡地の利用について、市の許可がない限り立ち退きを命じ、「本市復興事業施行上支障ナキ範囲ニ於テ農耕ノ目的ニ使用ノ場合ハ差支ヘナシ」と知らせた。
市の復興局に所属していた小野勝さんは、80年刊の著書で市の復興事業を巡り「遂行には内外の理解特に市民の協力を必要とする」との考えから、同局管轄で市報を再開したと振り返る。各課には資料係を置き、新聞社などへの広報にも努めたという。
市報の発行は続き、4月は戦災復興費5万3479円を含む961万4114円の46年度予算を紹介。歳出には配給諸費や孤児集団教育費も盛り込まれた。歳入のうち市税は、149万3063円を見込んでいた。「辞令」の欄では、浜井信三助役が商工、農漁各課長の兼務を外れた一方、臨時人口調査部長の兼務を命じられていた。復興局建設部長などの人事も載った。
7月には市長名で食糧不足の懸念を伝え、田舎に土地がある市民は一時的に農村の増産に協力するよう呼びかけた。「節米」も求めた。(山本真帆)
(2025年3月21日朝刊掲載)