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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1955年10月 原爆裁判の答弁

投下は「合法」と国主張

 1955年10月。広島や東京の原爆被害者が国を訴えた東京地裁の「原爆裁判」で、主張を整理する準備手続きが進んでいた。米軍の広島、長崎への原爆投下は国際法違反かどうか―。違法だとして損害賠償を求める原告側に対し、被告の国が初の答弁書を出した。

 裁判は55年4月、原告計5人が東京地裁と大阪地裁(後に東京に併合)に起こした。原水爆禁止と原爆被害者救済の弾みにするのが目的だった。

 提唱したのは兵庫県芦屋市の弁護士の岡本尚一さん(58年に66歳で死去)。53年に冊子「原爆民訴或問(みんそわくもん)」を作り、裁判で原爆投下を違法と立証することが「原爆の使用が禁止せらるべきである天地の公理を世界の人類に印象づけるでありましよう」と説いた。

 当初は、米国の裁判所で米政府や原爆投下当時の大統領のトルーマン氏に損害賠償を求める訴訟を構想していた。ただ、52年4月発効のサンフランシスコ平和条約は、戦争から生じた連合国への請求権を日本は放棄すると規定。米国の法曹関係者たちに協力を求めたが、「法律的に根拠がない」などと否定された。

請求権を放棄

 岡本さんは東京の弁護士の松井康浩さん(2008年に85歳で死去)と共に、請求権を放棄した日本政府に賠償を求める方向で訴訟を練り直す。今の三原市出身で、弟が広島で原爆に遭った松井さんは「被爆者に対する救援は何一つしようともせず」と政府に憤りを感じていた(68年の著書「戦争と国際法」)。

 広島市で結成された「原爆被害者の会」が裁判に賛同。会を通じ、原爆で子ども5人を失った被害者下田隆一さん(64年に65歳で死去)たちが原告に名を連ねた。

 訴状は猛烈な爆風、熱線による広域的な破壊と、放射線の人体影響の残虐性を強調。軍事目標と非軍事目標との区別が必要な都市への無差別攻撃や「不必要な苦痛を与える兵器」の使用を禁じるハーグ陸戦条約への違反を訴えた。

 だが、提訴の半年後に出された国の答弁書は「(原爆投下が)違法なものであることは直ちに断定できない」。原爆は当時、新兵器だったため禁じる国際法はなく、今もないなどと主張した。その上で原告にはもともと米国への請求権はなく、日本政府による賠償の義務はないなどとして請求の棄却を求めた。松井さんは「はなはださびしく、かつまた憤りを感じないわけにはいかなかった」(同書)。

占領経て一転

 政府の主張は、敗戦と占領期を経て一転していた。広島への原爆投下から4日後の45年8月10日、政府が米国に提出した抗議文は広島での「新型爆弾」使用を国際法違反だと訴えていた。非戦闘員を巻き込む無差別殺傷で「人類文化に対する罪悪」と非難した。

 答弁書の提出を受けて原告側がこの点を問うと、政府は交戦国の立場を離れて考えが変わったと説明。「戦争継続による、より以上の交戦国双方の人命殺傷を防止する結果を招来した」と原爆投下を肯定するような主張も示した。原爆投下の国際法上の評価を巡る異例の訴訟は準備手続きだけで4年余りを要し、判決は63年12月だった。(編集委員・水川恭輔)

(2025年3月20日朝刊掲載)

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