[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1957年3~4月 座り込み
25年3月24日
英の核実験計画に抗議
1957年3月25日。広島市の平和記念公園(現中区)の原爆慰霊碑前で被爆者たち4人が、座り込みを始めた。英国が発表した南太平洋クリスマス島(キリバス)近海での水爆実験計画への抗議。岸信介首相たちへ「水爆実験の抗議にたて」などとアピールする声明書をそばに掲げた。
漁船員や周辺住民が「死の灰」(放射性降下物)を浴びたマーシャル諸島ビキニ環礁での米水爆実験から3年。同じ太平洋での英国の計画は、漁業者をはじめ全国に不安を広げていた。
「広島でできることを」と座り込んだのは、「原爆一号」と呼ばれ広島県被団協の運動にも関わる吉川清さんや、仲間の河本一郎さんたち。計画中止まで無期限の思いで翌日以降も交代で続けた。市民や観光客が飲み物、菓子を差し入れ。飛び込み参加もあった。
禎子さん兄も
3月30日に座り込んだのは、基町高進学を控えた当時15歳の佐々木雅弘さん(83)=福岡県。被爆した妹の禎子さんを白血病のため55年に12歳で亡くしていた。「春休みで偶然通りかかったんです。純粋に実験への怒りを感じていました」
4月6日には、広島県被団協の呼びかけで藤居平一事務局長や県内の被害者たち十数人が加わった。県被団協は3月28日の理事会で、吉川さんたちを県被団協を代表しての行動に位置付け、支援を決めていた。
原水爆禁止広島市協議会(会長・渡辺忠雄市長)が4月20日に平和記念公園で「原水爆実験阻止広島市民大会」を開き、米英に加え、55年に水爆実験をしたソ連に対し、核実験中止や実験禁止協定を迫る決議を採択。1カ月近い座り込みはこの日で終えたが、核実験抗議の座り込みの先駆けとなった。
先立って政府は全国の抗議を受け4月上旬に岸首相の特使として松下正寿・立教大総長を英国に派遣。マクミラン首相に「核兵器の災害を経験している日本国民の気持ちを理解してもらいたい」と実験中止を要請していた。
それでも英国は5月15日に水爆実験に踏み切る。原水爆禁止日本協議会は原水爆禁止を米ソ英で訴える「国民使節」の派遣準備を本格化。一員として被爆者で広島大教授の森滝市郎さんと、伊藤忠男市議会議長が6月30日に広島をたった。
渡航渋られる
ただ、2人を含む「国民使節」への旅券交付を政府に渋られる。政府の担当者は同協議会に対し、核実験の問題について「微妙な国際情勢の中で、岸首相自身が折衝中」とし、民間の使節には「反対の空気が強い」などと説明した。
交付を求める世論が拡大すると、まずソ連行きが認められ、最終的に米英へも渡航できた。英国班の森滝さんは8月に訪れ、評論家のバートランド・ラッセル氏らと運動を巡り意見交換した。
米国班の伊藤議長はニューヨークなどを訪問。報告書では、原水爆禁止運動をする人は共産主義者と決めつけられ、伊藤議長たちも活動の制約を受け、所期の成果を満足に得られなかったとした。また、現地の市民の運動への関心は極めて低く「原水爆の恐ろしさについて十分知らされていない」と危惧した。(下高充生)
(2025年3月24日朝刊掲載)