光海軍工廠 母の若き日々 日記託された次男の橋本さん書籍化 勤労や娯楽 死を覚悟した空襲
25年3月24日
2021年に98歳で亡くなった山口市の田中(旧姓岩脇)テルさんが光海軍工廠(こうしょう)(光市)での勤労動員の日々をつづった1945年の日記が、単行本として出版された。亡くなる半年前に日記を託された次男の橋本紀夫さん(72)=山口市=が監修。戦時下の日常や工廠を標的にした空襲の惨状を伝える貴重な記録だ。(山本真帆)
タイトルは「光海軍工廠の日記 岩脇テルの恋と戦争」。魚雷のエンジンを製造する水雷部で働いていた田中さんが45年1月から年末まで付けた日記の全文を、関連の写真や資料を交えて収録している。
「夜、映画“海の虎”文化映画ある」(4月17日)「氷づめミカンあり、生まれて始めて食べる。感想、冷たく美味しい」(6月28日)…。ドーナツを食べたり、演芸会を楽しんだりした様子も記す。
一方で、「我には唯生産一路あるのみ」(3月27日)と仕事に打ち込んだ様子がうかがえる。人間魚雷「回天」で出撃した特攻隊員の出港を見送った日もあった。終戦が告げられる前日の8月14日には空襲を経験。箸箱を持って食堂に集まろうとした時に爆撃の音を聞き、敷地内の防空壕(ごう)に逃げ込んで助かった。「死を覚悟して皆で最後迄頑張る」と振り返る。
田中さんは20歳だった44年初めから旧日本海軍の兵器を製造していた光海軍工廠に動員された。同じ職場で思いを寄せる人が戦地に赴いて行ったのを機に、日記を書き始めた。
「光海軍工廠にまつわる記録はあまり残っておらず、内部での生活の様子がリアルタイムで書かれているのは貴重」と、UBE出版(宇部市)の編集者の堀雅昭さん(62)が橋本さんに出版を提案した。堀さんの父は宇部中(現宇部高)在学中に水雷部に学徒動員された経験があり、「テルさんとどこかで会っていたかもしれない」との思いも動機になった。
田中さんは故郷に戻った後の日記で、「ぼんやりして居るとつい、いつか工廠の事を考へて居る。(中略)なつかしくたまらぬ。あの友、この友、皆、何をしているだらう」(9月1日)と思いを巡らせている。橋本さんは「母にとって光は第二の故郷だった。当時の思いが詰まった日記を多くの人に見てほしい」と話している。
A5判151ページで1870円。UBE出版☎090(8067)9676。
光海軍工廠
日本で7番目の海軍工廠として1940年10月に開庁。爆弾や魚雷を製造し、終戦間際には動員学徒を含む約3万人が働いていた。45年8月14日の米軍による空襲で、748人が犠牲になった。
(2025年3月24日朝刊掲載)
タイトルは「光海軍工廠の日記 岩脇テルの恋と戦争」。魚雷のエンジンを製造する水雷部で働いていた田中さんが45年1月から年末まで付けた日記の全文を、関連の写真や資料を交えて収録している。
「夜、映画“海の虎”文化映画ある」(4月17日)「氷づめミカンあり、生まれて始めて食べる。感想、冷たく美味しい」(6月28日)…。ドーナツを食べたり、演芸会を楽しんだりした様子も記す。
一方で、「我には唯生産一路あるのみ」(3月27日)と仕事に打ち込んだ様子がうかがえる。人間魚雷「回天」で出撃した特攻隊員の出港を見送った日もあった。終戦が告げられる前日の8月14日には空襲を経験。箸箱を持って食堂に集まろうとした時に爆撃の音を聞き、敷地内の防空壕(ごう)に逃げ込んで助かった。「死を覚悟して皆で最後迄頑張る」と振り返る。
田中さんは20歳だった44年初めから旧日本海軍の兵器を製造していた光海軍工廠に動員された。同じ職場で思いを寄せる人が戦地に赴いて行ったのを機に、日記を書き始めた。
「光海軍工廠にまつわる記録はあまり残っておらず、内部での生活の様子がリアルタイムで書かれているのは貴重」と、UBE出版(宇部市)の編集者の堀雅昭さん(62)が橋本さんに出版を提案した。堀さんの父は宇部中(現宇部高)在学中に水雷部に学徒動員された経験があり、「テルさんとどこかで会っていたかもしれない」との思いも動機になった。
田中さんは故郷に戻った後の日記で、「ぼんやりして居るとつい、いつか工廠の事を考へて居る。(中略)なつかしくたまらぬ。あの友、この友、皆、何をしているだらう」(9月1日)と思いを巡らせている。橋本さんは「母にとって光は第二の故郷だった。当時の思いが詰まった日記を多くの人に見てほしい」と話している。
A5判151ページで1870円。UBE出版☎090(8067)9676。
光海軍工廠
日本で7番目の海軍工廠として1940年10月に開庁。爆弾や魚雷を製造し、終戦間際には動員学徒を含む約3万人が働いていた。45年8月14日の米軍による空襲で、748人が犠牲になった。
(2025年3月24日朝刊掲載)