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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1957年3月 原爆医療法成立

「被爆者」 国が初めて定義

 1957年3月。「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)案が衆参両院で可決され、成立した。米軍の広島、長崎への原爆投下から約11年7カ月。被爆し、なおも苦しむ人の存在を国が初めて法的に認め、援護策を定めた。

 日本被団協事務局長として援護を求める運動を引っ張った藤居平一さんは後に、振り返っている。「まどうてくれ(元通りにしてくれ)という事が、この要求が、値切られたけれども法律になった」(81年の「資料調査通信」収録の証言)

研究基に区分

 同法は1条で「原子爆弾の被爆者が今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ、国が被爆者に対し健康診断及び医療を行う」と明記。「被爆者」は2条や政令で、原爆投下時に規定区域にいた▽2週間以内に規定区域に入った▽身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情にあった▽これらに該当する人の胎児―とした。

 この区分は、当時の研究を基に放射線が人体に影響を及ぼす条件を考えて線引きしたとされる。該当者が申請すれば、被爆者健康手帳を交付。手帳所持者は、治癒能力への影響を含め国が原爆の放射線との関連があると認めた病気やけがについて、国費による治療を受けられた。年2回の無料健康診断も実施された。

 施行は4月1日。3日付本紙は「十年の悲願」の見出しで地元の反応を載せた。広島市の広島逓信病院の蜂谷道彦院長は「大変な福音だ。早期診断、早期治療ができる」。市内に入院する被害者の声を「非常に期待」などと伝えた。

 日本被団協代表委員の森滝市郎さんも「同情ある世論と政府のおかげ」と歓迎。ただ、「治療手当のようなものが出なければ生活の不安があって十分な治療ができぬ。この点が心配だ」とした。

 無料の治療や健診の制度ができても、特に経済的に余裕がない人は仕事を休んで受診したり、病気が見つかって入院したりするのを避ける懸念があった。被団協が結成直後に国に求める援護策をまとめた「原爆被害者援護法案要綱」は生活保障として、生計を補う手当支給を求めていたが、医療法には盛り込まれなかった。

受診者は低迷

 広島市では、6月3日から市役所と3出張所で手帳申請の受け付けを開始。初日は計1850人が届け出た。一方で、8月に始まる健康診断の受診者は12月時点で18・6%に低迷した。

 また、被団協の要綱は原爆による死没者や遺族を「原爆被害者」と位置付け、弔慰金や遺族年金を求めていたが、生存被爆者の「健康の保持及び向上」(1条)を目的とする医療法は被害者として顧みなかった。疎開していて「被爆」していないが、家族を失った児童のように、国が始めた戦争の末に過酷な戦後を強いられた被害者が援護からこぼれ落ちた。

 施行直後の本紙記事に藤居さんの見解も載っている。「大変いい法律」としながら「被害者の問題はあらゆる法律が完備し適用されないと解決しない」と訴えた。自身も父や妹を失う一方、「被爆」はしていなかった。国家補償を求める運動は続く。(下高充生)

(2025年3月23日朝刊掲載)

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