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連載・特集

ヒロシマ 21世紀へ 伝言板再び <2> 向き合う今

心揺れた恩師との再会

54年 やっと被爆直視

 「私を見つけてくれた時の笑顔を思い出して…。感無量です」。漆喰(しっくい)の下から現れた「伝言板」に、池田文子さん(66)は救護所で自分の名を呼ぶ先生の姿を見た。

 ■うめく級友

 被爆当時、袋町国民学校と呼ばれた袋町小学校(広島市中区)の西校舎。そばには、伝言を書き込んだ担任の加藤好男さん(79)=安佐南区古市二丁目、ともに被爆した級友の赤名信子さん(66)=東広島市高屋町=が寄り添う。池田さんは今春、見つかった伝言板の「寮内」の二文字を確かめようと、六月末に自宅がある北九州市小倉北区から駆け付けた。

 「髙一 瓢文子ガ火傷シテ…治療ヲ受ケテヰマス…」。瓢(ひさご)は池田さんの旧姓。加藤先生が同僚の教師に託した伝言を思い浮かべながら、池田さんは話しかけた。「私はあの時、何もする気が起きなかった。先生の顔を見て目が覚めた感じでした」

 「郊外ばかり捜したから、学校の近くにいて驚いたよ。もっと早く気付いてあげればよかった」。加藤さんは少し頭を下げた。

 あの日、池田さんは学校の南約六百メートルの広島市役所裏で建物疎開の後片付けを始めていた。倒した家屋の屋根がわらをはがし、ともに高等科一年生(現在の中学一年)だった赤名さんに手渡そうと振り向いた瞬間、爆風に襲われた。気付くと、もんぺに火が付き、うめく級友たちの姿があった。

 炎の中を逃げて学校へたどり着き、焼け残っていた広島富国館内の救護所で治療を受けた。発熱が続き、肩や手足のやけどで起き上がれなかった。約一週間後、教え子たちを捜し回っていた加藤先生が玄関に立っていた。

 その後、池田さんは先生に何も伝えられぬまま救護所を離れ、互いの消息は途絶えた。

 ■健在を知る

 その二人を再び引き合わせたのが、この伝言板である。文部省学術調査団が被爆二カ月後に撮影した伝言板の写真が、一九七三(昭和四十八)年に公開され、池田さんは加藤さんの健在を知った。心が揺れた。夫と二人の娘がいる。会いたいが、被爆者だと名乗り出たくなかった。「でも救護所で出会った先生の笑顔をもう一度見たかった」。二十八年ぶりの再会は、その年の八月六日、漆喰に覆われた伝言板の前だった。

 あれから二十六年を経て、二人は現れた伝言板を目の当たりにした。「残っていたのはうれしいけど、悲しいことも思い出す。すべて忘れようと生きてきたから」。池田さんは胸中を、そう明かした。

 幼くして両親と死別し、唯一の肉親だった姉二人は被爆死した。戦後、引き取られた親類宅での生活、結婚、出産…。「何をするにも被爆者だからと言われて」。八月が近づくといらだち始め「六日」は家に閉じこもった。

 ■家族が支え

 昨夏には二度目のがんを患った。告知を受けてから一週間、食べ物がのどを通らなかった。「原爆が憎くて憎くて。何で今ごろこんな目に」。やり場のない怒りを抑えられなかった。

 そんな自分を家族が支えてくれた。長女(37)が小学生の時、学校に頼まれて被爆体験記を書いた時のことを覚えている。「意を決して、つらい人生を振り返ったら娘に怒られました。私たちと暮らす今は幸せじゃないのかって。今も娘にさとされることが多いんですよ」

 被爆から五十四年を生き抜いてきた。「最近ですよ。あの体験を正面から受け止められるようになったのは」。池田さんは伝言板を見詰めながら思った。「来てよかった」と。

(1999年7月6日朝刊掲載)

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