×

連載・特集

ヒロシマ 21世紀へ 伝言板再び <3> 訴える力

児童に語る教え子の無念

目の輝きに手ごたえ

 ■同世代の死

 「焼けた校舎の壁はススで汚れ、黒板のようでした」。加藤好男さん(79)=広島市安佐南区古市二丁目=は静かに語り始めた。「毎日、受け持ちの子を捜し歩いた。学校を留守にする間、訪れた人に子どもや教師の消息を何とか伝えたい。そう思って、チョークを集め、夢中で書き込んだんです」。三十九人の児童たちは、メモを取る手を休め、加藤さんの顔を見詰めた。

 広島市中区の袋町小学校(中山龍興校長、二百十七人)。この三月、西校舎に残る漆喰(しっくい)の壁の下から、被爆当時の伝言の一部が現れた。学校では今、「伝言板」をテーマにした平和学習が始まっている。それを書き記した「加藤先生」が先月二十八日、六年生の特別授業に講師として招かれた。

 授業は、伝言板のある階段の隣にある西校舎一階の図書室で始まった。児童たちは、母校に残る伝言板のいきさつを事前に調べて臨んだ。加藤さんは、質問に答える形で証言していった。五十四年前の学校の様子、自らの被爆体験、そして伝言板について…。

 「ここは昔、職員室でした。ここが教頭先生、向こうが、あの小林哲一校長先生の席」。伝言板の写真の拡大コピーを掲げ、「小林校長 戰災死」の伝言を指さした。「フーッ」。児童たちから、ため息が漏れる。同世代の子どもたちを巻き込んだ被爆当時の惨状が、次第に身近に感じられてくる。

 ■迷った末に

 加藤さんはあの日、袋町国民学校高等科一年生(現在の中学一年)の約三十人を引率していた。建物疎開の作業現場は、学校の南約六百メートルの広島市役所裏。参加人数の報告のため、生徒から離れた時、爆風に吹き飛ばされた。

 はぐれた教え子を捜したが、見つかったのは伝言に書き込んだ女生徒ただ一人。その後も、ほとんどの生徒の生死が分からなかった。

 「一人で逃げて亡くなった子もいたはずだ。寂しかったろう。不安だっただろう」。近くにいながら教え子に出会えず、自分だけが生き残ったことを、今なお悔やむ。感情を抑えた語り口で、一時間の授業を終えた。

 講師役は昨年に続いて二度目。今回も、迷った末に引き受けた。「話せば話すほど、子どもたちの関心が離れていく。もう自分の話は、今の子に伝わらないのではないか」。昨年三月、当時の六年生に被爆体験を語ったが、児童たちの心を引きつけることができなかったからだ。

 現役の教諭時代、被爆体験を話すことはほとんどなかった。生き残った後悔がそうさせた。ただ、長い年月は、当時の教え子の記憶をも消し去っていく。いくら頑張っても名前を半分も書き出せない。「私が忘れたら、あの子らの生きたあかしがなくなる」。そんな葛藤(かっとう)を抱きながら、再び講師を引き受けた。

 ■質問相次ぐ

 今回は違った。授業の終わり、児童たちの手が次々に挙がった。当時の子どもたちの暮らしぶりや戦争についての質問が相次いだ。加藤さんを拍手で送り出す時、ささやき合う児童もいた。「あの伝言書いた人が、生きているってすごいね」

 授業後、児童たちは漆喰を削った場所に顔を近づけ、そこから現れた「寮内」の二文字に、あらためて見入っていた。「みんな目が輝いていた。人間臭い被爆の跡が訴える力を、思い知った」。加藤さんは、その光景を見守りながら、被爆体験を伝える新たな手ごたえを感じていた。

(1998年7月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ