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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1957年7月 市民球場の完成

ドームそば 野球の熱気

 1957年7月。広島市の原爆ドーム北側の基町(現中区)に、市民球場が完成した。広島カープ(現広島東洋カープ)の新たな本拠地。22日、ナイター照明が2軍戦で初点灯された。24日夜には阪神戦があり、まばゆい光に照らされたグラウンドの周りに観客約2万3千人が詰めかけた。

練習の手伝い

 国泰寺中(現中区)3年だった鈴木孝さん(82)=広島県熊野町=はこの年、カープの試合があるたびに市民球場に通った。「グラウンドボーイのアルバイトをしていたんです。カープの選手にかわいがってもらい、練習のお手伝いも楽しかったですねえ」

 鈴木さんは5歳だった48年、食糧不足の中、市役所近くで母と麦を刈る姿を写真に撮られた少年(2月4日付本連載で紹介)。そばのバラック住まいからの立ち退きなどを経て大手町(現中区)に落ち着き、新聞配達で家計を助けた。グラウンドボーイは市民球場の完成が近づく頃、教員から打診された。家庭の事情でアルバイトが必要な生徒に声がかかったようだった。

 背中にビール会社の広告が入ったユニホームを着て試合前の練習からグラウンドに入った。球拾いのほか、カープ選手の打撃練習のトスやキャッチボールの相手も。試合中は新しいボールを審判に渡したり、観客でいっぱいのスタンドでファウルボールを回収したりした。

 「『ヘイ、ボーイ』とよく声をかけてくれました」と思い出深いのがカープ外野手の平山智さん(2021年に死去)。米国出身の日系2世で、「フィーバー平山」の愛称で親しまれた。「小柄でしたが、すごく足が速くて」。間近に見たプレーがまぶしかった。

 鈴木さんは58年に定時制の高校に進み、グラウンドボーイから離れた。卒業後は地元企業に就職し、カープファンとして市民球場に何度も観戦に訪れた。

平和祈る銅板

 カープが08年まで本拠地に使った市民球場は、市が建設。地元企業からの建設費寄付などが後押しになった。

 正面玄関には「平和が永遠に続くように」などと刻んだ銅板が飾られた。56年11月、市を訪れた米大リーグのドジャースの一行が、「新しくできるナイター球場に永遠に残してほしい」(オマリー会長)と贈った。

 当時の本拠地はニューヨーク・ブルックリンにあり、前年にワールドシリーズを初制覇。大リーグ初の黒人選手として知られるジャッキー・ロビンソン選手たちが日米親善野球のため来日し、11月1日に広島総合球場でカープや阪神、南海などでつくる全関西との試合に臨んだ。一行は原爆慰霊碑も訪れ、献花した。

 「私たちは原爆で亡くなった野球ファンやその他の人々を追悼し、この訪問をささげる」(銘文)。銅板は09年からカープの本拠地となったマツダスタジアム(南区)に受け継がれ、球場内のスポーツバーにある。(編集委員・水川恭輔)

(2025年3月25日朝刊掲載)

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