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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1957年11月 平和大通りで供木運動

 1957年11月。広島市中心部を東西に貫く平和大通りで、市が植樹を本格化させていた。広島県内各地から樹木の提供を募る「供木運動」の一環。防災や観光機能を兼ね、幅100メートル、完成すれば長さ約4キロにわたる通りを緑豊かな憩いの場としようと、58年にかけて広く協力を呼びかけた。

 一帯は戦時中、空襲時の延焼を防ぐため家屋を壊す「建物疎開」の対象区域だった。米軍による原爆投下時には、市内の学校や地域からたくさんの人が動員されており、遮るものなく被爆して多くの命が奪われた。

緑にあこがれ

 市は終戦の翌46年にまとめた復興計画でここに「100メートル道路」の建設を打ち出す。11月に小町(現中区)付近で整地が始まり、徐々に延伸。51年には公募で「平和大通り」と名付けた。平和記念公園の東西を流れる元安川と本川には、彫刻家のイサム・ノグチ氏が欄干をデザインした平和大橋と西平和大橋を架け、裸婦のブロンズ像なども建立された一方、緑化は遅れていた。

 「当時は道が広いという印象しかなかった。比治山の裾の尾に雑木林がある程度で、緑へのあこがれがあった」と、サンフレッチェ広島の元総監督の今西和男さん(84)=中区=は振り返る。小学4年の時、被爆前に住んでいた平塚町(現中区)に戻り、目の前が平和大通りだった。

 地方都市では異例の大通りの整備には、疑問の声もあった。55年の市長選では、道幅を半減して市営住宅を建てる公約を掲げた渡辺忠雄さんが、現職の浜井信三さんたちを破り初当選。ただ、就任後は周囲の説得を受けて供木運動へとかじを切った。

県女碑そばに

 「夢みる20年後の広島」とPRした供木運動のポスターでは「十二年前のあの悲惨きわまる最後をとげた人たちに対するたむけ」と個人、団体に幅広く協力を求めた。57年4月23日付中国新聞によると、加計町(現安芸太田町)の栗栖常子さんはカシとケヤキを寄せた。原爆で県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年の娘紀子さん=当時(12)=を奪われていた。

 県女1年生は爆心地から約800メートルの土橋地区(現中区)で建物疎開作業に動員され、現場に出た223人が全滅した。栗栖さんの希望から平和大通り沿いの県女の慰霊碑「追憶之碑」(55年建立)そばに、提供の木を植えることになった。

 市によると、57、58年に個人・団体から約6千本が贈られ、緑を取り戻す原点となった。うち半数は山県郡が占め、樹種はクスノキやカエデ、ケヤキが目立った。現在も残っている樹木があるとみられる。平和大通りは65年5月、鶴見橋東詰め(現南区)から新己斐橋西詰め(現西区)までが全通した。  (山下美波)

(2025年3月26日朝刊掲載)

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