『論』 戦後80年 論説委員 加納優 スポーツ観戦王国・広島
25年3月27日
育て支える情熱が土台に
クレオパトラの鼻がもう少し低かったら―という有名なパスカルの言葉は、世界史の分岐点を語る際に用いられた。スポーツ観戦の頻度や使うお金が全国トップの広島県で言えばこうだろう。草創期の広島東洋カープの経営力やチーム力がもう少し高かったら―。今の観戦熱や街の姿は違っていたかもしれない。
延べ約274万人。広島県の人口に迫るこの数字は昨季、カープやサッカーJ1サンフレッチェ広島、女子WEの同レジーナ、バスケットボールB1広島ドラゴンフライズというプロスポーツ4チームの観客動員数の合計だ。人口規模との比較で見ると、全国でも群を抜いて多い。
一般的な観戦の目的は競技や好きなチーム、選手を間近で見ることだろう。いわば受動的な娯楽だ。広島は見るだけにとどまらず、地元チームを「育てる」「支える」といった能動的な目的を軸に存続の危機を乗り越えた特異な歴史を持つ。
源流には戦前から「スポーツ王国」と呼ばれた土地柄と80年前の被爆がある。カープは1949年、被爆と敗戦に打ちひしがれた人々を励まし、復興のシンボルとなる期待を背負って産声を上げた。
ところがカープは弱かった。初年度の50年は勝率3割に届かず、首位と59ゲーム差の最下位。資金難で選手の給料は滞り、遠征時は列車の床や網棚に寝転ぶありさまだった。
親会社を持たぬと掲げた方針には、被爆で地場企業には頼れなかった事情もうかがえる。実際、サントリーやアサヒビールなど県外企業への身売り話が浮かんでは消えた。進退窮まった球団役員会は51年3月、解散と大洋(現DeNA)への吸収合併を決定。カープは結成から1年余りで消滅した―はずだった。
覆したのは市民だ。ラジオで一報が流れると役員会会場の旅館や県庁、市役所などに「わしらのカープをつぶすな」と大勢の人が押し寄せたという。当時の記録には〈存続を訴える人も、訴えられる人もすべて涙、涙だった〉とある。この様子を見た石本秀一監督は、ファンが株主として支える後援会づくりを提案した。市民球団と呼ばれたゆえんだ。
「観戦=支援」を象徴するのが球場前に置かれた「たる募金」。公務員の初任給が7千円前後の時代に1日で数万円、多い時は10万円以上集まったという。ファンの寄付で有力選手を獲得した球団は世界でもまれだろう。75年の初優勝、昭和の黄金期へつながる大切な前史である。
Jリーグ理念に合致
この地域密着ぶりがJリーグの理念に合致していた点も見逃せない。93年の発足10クラブにサンフレが入った際、本紙は潜在的な「県民、市民の熱意」も加味されたと報じた。前身のマツダの日本リーグ時代の平均観客数は約2700人。リーグが目指す1万人に程遠く、プロ化を疑問視する声もあった。それでも選ばれたのは中四国唯一の地域性と「カープを育てた市民の心、プロスポーツの土壌があったから」。当時の県サッカー協会関係者が語っている。
そう思うと、サンフレの地元開幕戦に2年続けて2万7千人超が集ったのは感慨深い。90年代後半に陥った経営危機では、市民らがサンフレ版たる募金などで支援。2度のJ2降格時も変わらぬ声援を送った。クラブとサポーターが支え合い、危機を克服し、強豪へ成長した30年余りの軌跡もまた広島の誇りである。
そんな歩みの集大成が昨年開業したエディオンピースウイング広島(中区)といえる。今月のレジーナ戦で動員した2万人超は、女子サッカーの歴史に刻まれる快挙だ。開業1年で約130万人が訪れ、中心地の活性化に果たす役割も大きい。
「夢の器」がまちづくりを担い、チームを後押しした先例はマツダスタジアム(南区)である。きっかけは2004年の球界再編騒動だった。成績も観客動員も低迷していたカープの存続危機がささやかれた。
またもファンが「カープをなくすな」と動く。新球場建設に向け、全国から寄せられた募金は1億2600万円。県や市、財界を動かす力となった。3連覇に象徴される平成の黄金期は、ファンの支えとマツダスタジアムを抜きにして語れない。
この土壌の上で急成長したのがドラフラだ。昨季は創設10シーズン目でB1を初制覇し、今季は東アジアの頂点に立った。集客力も高まり、26年開幕のトップリーグ「Bプレミア」の参入条件だった動員数もクリアした。「カープとサンフレのおかげで、広島にはプロスポーツを理解し、支える文化が根付いている」。クラブ幹部は常々感謝を口にする。
広島と平和のPRに
歴史的背景だけではない。広島経済大の渡辺泰弘准教授(スポーツ経営学)は飲食物を持ち込め、男女を問わず楽しめるスタジアムの雰囲気を指摘。他の地域に比べて地元メディアでの露出が多く、チームを身近に感じる環境も整っているとみる。
次のハード整備として注目されるのは、ドラフラがJR広島駅周辺で描いている新アリーナ構想だ。渡辺准教授は「トップスポーツやコンサートなど、エンターテインメント性に主眼を置いた『見せるアリーナ』が必要」と説く。既存のスタジアムも含め、より観客目線に沿った運営や仕掛けが大切との提言だ。
課題を挙げるとすれば、地元チームへの強い愛着が、時に排他性に向かう側面だろう。旧市民球場でもかつては相手ファンとのトラブルが頻発していた。サンフレやドラフラは今、アウェーの観客に場内アナウンスで歓迎と感謝を伝える。ドラフラはさらに、相手チームの退場を会場全体のスタンディングオベーションで見送っている。新たな「広島らしさ」として広がるといい。
スポーツ観戦を楽しめるのは、平和だからこそ。平和都市としてのイメージアップや観光振興にもつながる財産だ。スポーツの力を官民でもっと活用しない手はない。
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全国広島東洋カープ私設応援団連盟前会長 新藤邦憲さんに聞く
カープの歴史語り継いで
全国広島東洋カープ私設応援団連盟の前会長、新藤邦憲さん(77)=広島市中区=のファン歴は70年に及ぶ。カープ応援の歴史や若いファンへの注文などを聞いた。
―昔は複数の応援団がばらばらに活動していたそうですね。
1973年に旧市民球場の6団体で連盟組織をつくった。万年Bクラスを脱するため、応援団の心も一つにしようと。97年に全国35団体が一緒になるまでの苦労も多かった。今は全国どの球場でも同じ応援ができる。これは当たり前じゃない。
―スクワット応援などカープ特有の応援も多い印象です。
トランペットは78年、広島経済大の学生にカープうどんをごちそうする代わりに吹いてもらったのが始まり。選手別応援歌の先駆けになった。「ジェット風船」も同年、甲子園の三塁側で在阪カープ応援団が揚げたのが最初で、旧市民球場や阪神ファンにも広がっていった。スクワット応援を93年ごろに始めたのは数人の女子高校生たち。その後、神宮球場など関東のファンが一体的な応援をする中で定着していった。自然発生だからこそ今でも廃れんのでしょう。
―球界再編騒動を機に、カープ存続や新球場建設を訴える募金活動を展開しました。
カープは人生の一部。なくなると思うと、居ても立ってもおれんかった。わしらが支えんといけんと。結果的にマツダスタジアムという世界に誇れる球場ができ、観戦の環境やムードが良くなって「カープ女子」の流行にもつながった。全国のファンと一つになって、カープを後押しできたと思うと感慨深い。
―若いファンに望むことは。
たる募金などのカープの歴史を知り、語り継いでもらいたいのが一つ。カープ球団も含め、ビジターファンをもっと大切にしてほしいという思いもある。好きなチームを熱く応援する同志が、いがみ合う必要はない。
(2025年3月27日朝刊掲載)