『別れの記』 在米被爆者 笹森恵子(ささもりしげこ)さん
25年3月27日
昨年12月15日 92歳で死去
世界で反戦反核訴え
20年余り前に取材で出会って以来、里帰りのたびに連絡をくれ、こちらが米国出張のたび世話になったが、それは筆者に対してだけではない。持ち前の明るさで誰とでも打ち解けた。「多くの人に助けられて今がある。命ある限り、恩返ししたい」と実践した。まさに「平和は一人一人から」を体現した人だった。
13歳の時、爆心地から約1・5キロで建物疎開の片付け作業をしていて被爆した。目も開けられないほどの大やけどを負い、生死をさまよう。一命を取り留めても長い闘病生活。原爆に焼かれ、別人のように変わった顔に絶望もした。それでも時を経て「悪いこともあれば、いいこともあるのよ」と朗らかに語った。
被爆から10年後、原爆を投下した米国に渡る。米ジャーナリストの故ノーマン・カズンズ氏たちが実現させた「渡米治療」事業。当時現地メディアが「ヒロシマ・ガールズ」と呼んだ若い女性25人のうちの1人だった。1年半に及ぶ事業は有志の米市民が支えた。
かつて「敵」だと教えられた国で心ある人々に出会う。その経験が人生を大きく変えたという。治療を終え帰国後、カズンズ夫妻の養子となり再渡米。米市民権を得て、看護師として働きながら一人息子を育て上げた。
やがて知人に請われ、近くの学校で体験を語るように。反戦反核を訴える舞台は、米上院や国連、海外へ広がった。「声を上げないと。でないと何のために私は生かされたの」。いつも自問するように話していた。
最後に広島で再会したのは2023年秋。90歳を過ぎ、体はひとまわり小さくなっていたが、明るいおしゃべりは変わらず。別れ際「また(米国に)来なさいよ」と誘ってくれた。応えられなかったのが残念でならない。(論説委員・森田裕美)
(2025年3月27日朝刊掲載)