[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1958年2月 トルーマン発言
25年3月28日
犠牲者を冒瀆 強く抗議
1958年2月3日。中国新聞夕刊1面に、原爆投下時の米大統領だったトルーマン氏の発言を伝える通信社の記事が載った。「私は広島、長崎の原爆攻撃を指令した後に、良心のかしゃくを少しも感じなかった」
2日の米テレビ番組での発言。「戦争に勝てる兵器を持ちながら使わなかったとすればばかげたこと」「これからも万一の場合は水爆の使用は確かだ」とも述べていた。
本人と論争に
広島県被団協の藤居平一事務局長は3日、「これでは二十数万の犠牲者が犬死にだ。被害の実相が分かっていない証拠だ」と非難した。知事や広島市長も抗議談話を発表。市議会は13日の臨時会で「広島市民と犠牲者を冒瀆(ぼうとく)するもはなはだしい」などとする抗議声明を出席議員31人の全会一致で決議した。すると、本人との論争に発展する。
トルーマン氏は3月12日、任都栗司議長宛ての書簡を公表し、日本軍の真珠湾攻撃がなければ原爆投下もなかったと批判した。原爆投下で連合国側と日本側双方で計150万人が死や身体に障害を負うことを免れた―。具体的根拠は示さずそう主張し、原爆投下は「必要だった」と強調した。
対して、任都栗議長は20日の市議会本会議で「反省の色」がないとして抗議文送付を提案し、同意を取り付ける。文面では、真珠湾攻撃に関し日本の戦争指導者が「拙劣なる侵略行為により解決をはかったことは遺憾のきわみ」としつつ、原爆投下は国際法上の「明らかな犯罪」とただした。
「広島の非戦闘員、二十数万の老幼男女を殺戮(さつりく)する暴挙を行いながら、これを合法化せんとする貴下の態度を、あえて人道的行為と考えられますか」
任都栗さんも被爆直後に地元の牛田地区(現東区)で救護や埋葬に当たっていた。当時の市議には、原爆で広島一中(現国泰寺高)3年の長男を亡くした秋田正之さん(3月2日付本連載で紹介)や、被爆時の市助役で救護に尽力した柴田重暉さんたちもいた。
米国でも反響
論争は米国でも反響を呼び、市には4月までに賛否の手紙が20通ほど米国から届く。トルーマン氏支持の6通は「パールハーバー(真珠湾)の不意打ちを忘れるな」など。反対に、「私は原爆投下を軽々しく笑いこけたトルーマンを憎む」との意見もあった。
一方、岸信介首相は2月14日の参院本会議でトルーマン氏の発言の受け止めを問われ「事実なら遺憾である」と答えた。水面下では、朝海浩一郎駐米大使が元連合国軍総司令部(GHQ)の関係者からさらなる反論を勧められており、藤山愛一郎外相に送った「極秘」公電(3月20日付)が残る。
進言したのはマッカーサー最高司令官の軍事秘書を務めたフェラーズ氏。日本の降伏決定と原爆投下を結びつけるのは事実に反すると主張し、トルーマン氏と現職のアイゼンハワー大統領との関係性を考えれば「何等かの処置」に出ても「米政府と日本側が気拙(きまず)い関係になることは考えられず」と伝えた。
大使は「アプリシエート(感謝)する旨答えておいた」と報告。ただ、結局政府は目立った動きを見せず、進言は事実上黙殺された。トルーマン氏が発言の撤回や謝罪をすることもなかった。(下高充生)
(2025年3月28日朝刊掲載)