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[ヒロシマドキュメント 1946年] 3月 仮校舎の民家で卒業式

 1946年3月。広島市内の各学校で卒業式が開かれた。爆心地から約1・1キロにあり、全焼した中島国民学校(現中区の中島小)は、仮校舎として使っていた校区内の民家を会場にし、約30人が集まった。

 出席した宗藤芳丸さん(2016年に82歳で死去)がその様子を98年刊の「中島小学校創立百周年記念誌」に書き残している。「卒業証書等はなく、恩師の司会により」営まれ、校長の言葉を聞き「栄えある卒業式が終わりました」。名簿によれば、同学年に約70人が在籍していたとみられる。

 各校とも卒業式といえど、被爆後の混乱で出席できなかったり、別の学校で卒業を迎えたりした児童・生徒が多くいた。中島国民学校は校区内の大部分が焼け野原となり、民家数軒で12月から授業を再開していた。

 五日市町(現佐伯区)の広島戦災児育成所でも26日、原爆で両親を亡くした児童を含む10人の卒業式があった。28日付本紙によると、創設者の山下義信さんは「戦災の苦難に耐え、良く業に励んだ」と卒業生をたたえ、「石にかじりついても幾度転んでも起ち上る人間になってくれ」と祝辞を贈った。

 一方、爆心地から460メートルの袋町国民学校(現中区の袋町小)では、卒業式は開かれなかった。被爆当時、登校していた児童と教職員の大半が犠牲に。爆心地に近く、疎開していた児童も家族や親類を失い、散り散りになっていた。学校再開は46年5月ごろだった。

 在学した証しが欲しいと、被爆当時の6年生の同期会が働きかけ、校長名の「五学年課程修了証書」を受け取ったのは00年。川本省三さん(22年に88歳で死去)たちが式の様子などをまとめた記念誌「ふくろまち」(02年刊)に、答辞が収められている。「何時も心の支えとなり杖(つえ)となって参りました袋町国民学校時代の思い出は、心に深く焼きついております」(山本真帆)

(2025年3月28日朝刊掲載)

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