[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1958年5月5日 原爆の子の像除幕
25年3月31日
級友ら「禎ちゃんの墓を」
1958年5月5日。広島市の平和記念公園(現中区)で「原爆の子の像」が除幕された。白血病のため12歳で亡くなった佐々木禎子さんがモデル。幟町小(現中区)6年竹組の級友で、当時高校1年生の川野登美子さん(82)=中区=は達成感に浸り、拍手を送った。「霊前で禎ちゃんと交わした約束を果たしたい一心でしたから」
コンクリート製台座(高さ約6メートル)の上に折り鶴をささげ持つ少女のブロンズ像(約3メートル)が立つ。鐘を湯川秀樹博士が寄贈し、自筆の「千羽鶴」「地に空に平和」の文字を浮き彫りにした。
碑文は中学生への公募で選ばれた。「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」
ビラ2000枚刷る
建立のきっかけをつくったのは、幟町中などに進んでいた禎子さんの級友たち「団結の会」だ。死から14日後の55年11月、法要のため佐々木家に集まると、見舞いが途絶えがちになった後悔から「禎ちゃんの墓を建てよう」との意見が出た。
ただ、同席していた当時26歳の河本一郎さんからは、原爆で亡くなったすべての子どもの慰霊碑の建立を勧められる。会として賛同し、資金確保に動き始めた。
「広島市立幟町中学校一年生 故佐々木禎子級友一同」を呼びかけ人とし、「原爆の子の像を作りましょう」「原爆で死んだ子等の霊をも合せ祀(まつ)りたい」と寄付を呼びかけるビラ2千枚をガリ版で刷った。11月に市内であった全国校長会で配ると、各地から幟町中に寄付金が届いた。
市内各校の生徒会で「広島平和をきずく児童・生徒の会」を結成し、建設主体に。活動には団結の会も加わり、新聞やラジオでも報じられたが、川野さんは複雑だった。
「遺影を持って街頭に立ったりするのも宣伝のようで嫌で…。今なら理解できるけど、当時は活動が大きくなるにつれ私たちの手から離れるような寂しさがありました」
3年を費やす
それでも、団結の会で集まると「禎ちゃんのために頑張ろう」と励まし合い、中学3年間を費やした。国内外からの寄付は最終的に約580万円に。折り鶴の少女のそばには2体の少年少女の像が添えられた。川野さんは「あれは私たちだと思っています」。
禎子さんと折り鶴の話は世界に広がっていく。きっかけの一つが「灰墟(はいきょ)の光」(59年出版)。著者で、広島を訪ねたドイツ出身の国際ジャーナリスト、ロベルト・ユンク氏に禎子さんの話をしたのは河本さんだった。58年6月発足の「広島折鶴の会」の世話人として子どもたちの平和活動を支えることになる。(山下美波)
(2025年3月31日朝刊掲載)