[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1958年4月1日 復興大博覧会開幕
25年3月29日
原子力の「平和利用」PR
1958年4月1日。広島市主催の「広島復興大博覧会」が始まった。5月20日まで市内各所に「生活文化」「観光」「国際」など30館を設け、産業や文化の復興ぶりを紹介。入場券は予想を超えて約92万7千枚が売れる大盛況だった。
被爆後の45年11月に13万人台だった市内の人口は、40万人台まで増加。原爆の爆風で倒壊した基町(現中区)の広島城天守閣は博覧会に合わせて鉄筋で復元され「郷土館」となった。
訪れた当時中学生の内悧(さとし)さん(81)=西区=は「東洋工業(現マツダ)の三輪トラックなどを見て、すごい物があるんだなと。とにかく人であふれていました」。ただ、復興は道半ば。近くにはバラックの家も多くあった。「帰り道に迷い、バラックが立ち並ぶ中で友人と3人で泣き顔になったのを覚えています」
資料館に模型
原爆資料館は「原子力科学館」に使われた。「原子力の平和利用」をテーマに原子炉の模型などを展示。放射性物質を遠隔操作で扱う米国製の機械式アーム「マジック・ハンド」によるマッチ擦りの実演があった。
先立つ56年5~6月にも、資料館で「原子力平和利用博覧会」が開かれた。「平和利用」でも優位性を保とうとする核超大国の米国が旗振り役。資本主義(西側)陣営の各国で博覧会を仕掛け、日本では55年から東京、大阪など各地で自治体や報道機関と共催した。
広島では、県、市、広島大、米広報庁部門の広島アメリカ文化センター(ACC)、中国新聞社が共催し、約11万人が訪れた。53年に国連演説で「アトムズ・フォー・ピース」を提唱したアイゼンハワー米大統領の書簡が会場で掲げられた。「博覧会は、原子の偉大な力を今後は平和の技術にささげるという両国相互の決意を示す」
一方で、反核や反米感情につながる被爆資料は市中央公民館へ移された。事前の本紙の座談会記事(56年3月22日付夕刊)によれば、市産業局長は「USIS(米広報庁)の方では博覧会の主旨が変わるから切り離してほしいとの意向」と説明。ACCのアボル・フツイ館長は「爆弾による暗い面」ではなく「平和利用面だけ」が開催目的と語った。
展示に疑問も
記事は疑問の声も伝えた。「広島子どもを守る会」の山口勇子さんは「若い人の原爆禁止への気持ちが薄らぐのではないか」。56年8月に日本被団協の初代事務局長となる藤居平一さんは「原爆症」治療の研究を優先すべきだと訴え、「被爆者はあの苦い経験があるだけに、本当に平和的に利用できるのかどうか半信半疑だ」と懸念した。
かたや被爆した広島、長崎の市民の中には、原子力の軍事利用の悲惨さを知るからこそ「平和」に生かしてほしいと願う声もあった。6人で広島の会場を訪れた長崎原爆青年乙女の会一行は「原子力が戦争にだけ使われるのでなく、真に平和のために使われるのを強く望みます」と話した。
終了後に米国から展示物を寄贈された市は、復興大博覧会で廃虚のパノラマなど被爆の惨状を伝える資料とともに配置した。渡辺忠雄市長は狙いを「広島の教訓を再確認し、原子力の在り方を再検討して、核兵器の使用を断乎(だんこ)禁止し、原子力をして、平和利用一本に絞る」と博覧会誌に記した。
「平和利用」関係資料は博覧会後も資料館内に並べられた。資料館を「ヒロシマの悲惨さ」を伝える場としての性格をより強める動きの中、67年までに撤去された。(山下美波)
(2025年3月29日朝刊掲載)