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社説・コラム

[表現者の戦後・被爆80年] 小説家 平野啓一郎さん(49) 当事者じゃないから 書く意義

tyle="font-size:106%;font-weight:bold;">核抑止論 「現状追認型の現実主義」

 広島、長崎への原爆投下と第2次世界大戦の終結から80年を迎える。終戦以来、あまたの作家や芸術家があの惨禍を描いてきた。今を生きる表現者たちは、戦後80年の時空をどう意識し、作品に反映させているのだろうか。初回は、原爆文学に多大な影響を受けたという小説家平野啓一郎さん(49)に聞く。(桑島美帆)

 trong>≪1歳で父を亡くし、2歳から高校卒業まで母の実家がある北九州市で暮らした。市内には米軍が原爆の投下目標にしていた小倉地区があり、小学生だった1980年代は米ソ冷戦期と重なる。≫trong>

 子どもの頃から、北九州に落ちるはずだった原爆が長崎に落ちたことを意識していた。かなり原爆教育が盛んで、夏休みの登校日には、記録映画「にんげんをかえせ」を鑑賞し、学級文庫の漫画「はだしのゲン」をみんな読んでいた。川いっぱいに死体が浮かび、体にうじがわく描写はあまりにもグロテスクでショッキング。原爆教育では、ヒロシマのイメージの方が強かった印象がある。

 祖父母と同居していたこともあり、歯科医だった祖父から、ビルマ(現ミャンマー)の戦争体験を聞く機会も結構あったが、被害者意識が強く、断片的だった。戦争の全体像を知ると、証言とのギャップも見える。戦争経験者が亡くなっていく中、われわれが改めて体験をどう受け継ぐかを考える必要がある。

 trong>≪京都大在学中の99年に「日蝕」で芥川賞を受賞。本格的に小説家の道を歩み始めたこの頃、長崎で被爆した作家林京子(30~2017年)の作品と出合う。≫trong>

 林さんが書かれた「長い時間をかけた人間の経験」(00年)を文芸誌で初めて読み、非常に感銘を受けた。個々のディテールが細やかに描かれ、戦後何十年たっても(被爆が)人生に影響を及ぼしたことが克明に記されている。ケロイドのせいで結婚できず、農家に住み込みで働かざるを得なかった女性の話など、被爆証言からこぼれ落ちてしまう部分をデリケートに描いている。

 10代で被爆した林さんは、単純に被爆者を特権化せず、軍需工場で働いていた自分の加害責任も考えようとされていたと思う。(米ニューメキシコ州の核実験場の)「トリニティ・サイト」まで行き、短編「トリニティからトリニティへ」で試みたように、被爆者としての自分の在り方を、人類の加害責任に一体化する形で受け止め直すというような…。衝撃を受け、課題を突き付けられたような読後感だった。

 戦後の言説空間の中では、とにかく戦争体験が戦場体験に非常に偏っていた。三島由紀夫(1925~70年)も疎開先から戻った後、東京大空襲のかなり悲惨な状況を見ているが、文学に昇華することはできなかった。自分が戦場に行っていないという恥の感覚があったからだろう。女性作家も抑圧されていた。林さんが英語圏の作家であれば、とっくにノーベル賞候補になっていたのではないか。

 原民喜(1905~51年)からも大きな影響を受けた。10年前、広島で小説「鎮魂歌」(49年)を朗読したことも。絶望的な状況を独特の音感とイメージで作品化し、リフレインが作る言葉のリズムは詩的な魅力がある。被爆体験に根差した文学的な広がりを追求し、「サバイバーズ・ギルト」(生存者の罪悪感)と言われる心理も、彼自身が自殺に至るまで克明に書いた。

 trong>≪映画化されベストセラーとなった長編「マチネの終わりに」(2016年)では、主要な登場人物の国際ジャーナリスト小峰洋子の母を被爆者に設定。長崎市内で被爆し、差別から逃れて海外に渡った複雑な心情を伏線で描く。≫trong>

 東日本大震災の後、放射能の影響がかなり議論されていた時期に執筆した。当時は、政府が情報を隠蔽(いんぺい)し、混乱状態。僕も科学的な知見がよく分からず、この問題を書くべきタイミングかなと思った。生涯、自分と自分の子どもに対する被爆の影響を気にし続けていた林さんの作品のことも頭にあった。

 東日本大震災以降、当事者問題も現代作家に突き付けられたテーマだ。当事者がSNS(交流サイト)で現地からさまざまな声を上げる中、外から乗り込んでルポルタージュを書くことにどれだけの意味があるのか、という議論がある一方、小説家だからこそ書けることがあると思う。戦争に関しても、当事者でない立場から書くことに意義がある。

 trong>≪近年、人工知能(AI)や死刑制度などをテーマに、現代社会のひずみと向き合う作品を相次ぎ出版。X(旧ツイッター)では、反戦反核の姿勢を明確にしている。≫trong>

 今の社会は、現状追認型の現実主義を掲げる「現状追認主義」がまん延している。「核兵器は本当に必要か」という議論を完全に無効にし、核抑止を必要悪として現状追認することが現実主義だと思う人が非常に多い。核兵器による均衡は非常にもろく、都合良く解釈したフィクションだ。ウクライナやパレスチナを見ているとAIやドローンと組み合わされ、通常兵器の殺りく能力も巨大。その延長上に核兵器が使われる懸念が高まっている。

 文学は、作中にいろんな登場人物がいて、さまざまな考えを表明し、対立や議論、和解が描かれる。一生かけて経験するようなことが、ぎゅっと凝縮されて物語化されていく。感情移入しながら凝り固まった考えがほぐされ、開かれていくことがある。僕自身は文学を通じた活動に希望を持ちたい。やっぱり嘲笑的な「自称現実主義者」みたいな言葉と闘っていかなきゃと思う。

trong>ひらの・けいいちろうtrong>
 1975年愛知県生まれ。京都大法学部卒。99年「日蝕」で芥川賞。2004年に文化庁の文化交流使として1年間パリに滞在した。17年「マチネの終わりに」で渡辺淳一文学賞、23年「三島由紀夫論」で小林秀雄賞。近著に短編集「富士山」。20年から芥川賞選考委員を務める。

(2025年3月29日朝刊掲載)

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