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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1959年8月6日 楮山ヒロ子さんの日記

ドーム保存運動の原点

 1959年8月6日。祇園高1年楮山(かじやま)ヒロ子さんは「十四年前のこの日」について考えたことを日記に書いた。「ぎせい者となり親子がいっしょにくらす事の出来ない人が何万人いるだろう」。当時15歳。家族と引き裂かれた人や、もだえるほどの傷を負った人に思いを巡らせた。

 米軍の原爆投下から14年後の街で、なおその恐ろしさを思い起こさせるのが広島市の爆心地近くで原爆ドームと呼ばれる広島県産業奨励館の残骸だった。「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」(日記の要旨)

 45年8月6日、1歳の楮山さんは爆心地から約1・3キロの平塚町(現中区)の自宅で被爆。母に背負われ、祖母と3人で崩れた家から逃げた。父は戦後に復員。一家で広島県府中町に暮らし、小、中学へ通った。

元気そのもの

 府中中で3年間クラスが同じだった寺田正弘さん(81)=安佐南区=は「明るくてひょうきんなクラスを盛り上げる子でした」と話す。卒業時には「幸福になれよ そして勉学にはげめよ!」と級友に宛てたサイン帳に書いた。「元気そのもので原爆に遭っていることすら知りませんでした」

 楮山さんは中学の卒業式があった59年3月8日からノートに日々の出来事や心情を書き始めた。うれしさと寂しさが入り交じる卒業を経て高校での新たな体験もつづった。友人との電車通学、臨海学校での遠泳…。

 原爆の被害者に心を寄せた8月6日は、自身の健康状態にも触れていた。特に症状はないが、原爆に遭った人は「早く死ぬ」と聞いたことがあり、不安がないわけではなかった。「そう言う事を聞くと私は明日あるいは今日と思う」

 4カ月後、体に異変が起こる。姉妹でプレゼント交換を楽しんだクリスマスから2日後の12月27日、「茶の間にたおれてしまった」。60年3月には脚に紫の斑点が現れた。3月11日は、下校時に「電車に乗ると、ふら〳〵で息がくるしく足が重かった」。日記はこの日で途絶えた。

白血病と診断

 母キミ子さんの手記(以下、67年の冊子「爆心地」収録)がその前後の様子を伝える。風邪のような症状が出て近医にかかるなどしたがよくならず、広島市民病院で検査。白血病と診断された。

 3月末に緊急入院。歯茎や鼻から血が止まらず、「苦しいよーお父ちゃん!苦しいよーお母ちゃん!」と訴えた。水ものどを通らず、4月5日に息を引き取った。

 翌月の5月5日、キミ子さんは平和記念公園の「原爆の子の像」除幕2年の集いに参加する子どもたちにメッセージを寄せた。原爆が投下されなければ、こんな悲しみを味わうこともなかったと無念を吐露し、続けた。

 「悲惨な原子爆弾を多数保有し実験することが一等国であるという誤った考えの人もありますが、どうか皆さん、二度とこんな恐ろしい事を繰り返すことなく、真の平和が来る様、手に手を取って、世界の人々に訴えようではありませんか」。楮山さんが残した59年8月6日の日記も朗読された。

 60年2月にはフランスが初の核実験。米ソ英に続く核兵器保有国になった。45年8月6日は一日一日遠くなり、原爆ドームは風雨にさらされて朽ちつつあった。その姿に楮山さんが感じた「いつまでも」の願いに、子どもたちが手を取り、立ち上がる。(山下美波)

(2025年4月2日朝刊掲載)

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