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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1960年10月 親子の「再会」

別名の孤児 息子の面影

 1960年10月。広島市で理容師の修業をしていた当時16歳の竹谷(旧姓瀬川)富美子さん(81)=東区=は、市内に住む両親から突然の連絡を受けた。お兄ちゃんが生きているかもしれない―。15年前に行方が分からなくなった、2歳上の兄瀬川泰司(やすのり)さんのことだった。「びっくりして、信じられませんでした」

 45年8月6日、1歳だった富美子さんは東観音町(現西区)の母菊江さん(2022年に103歳で死去)の実家で被爆。火の手も迫る大混乱の中、倒れた建物から叔母に連れられて逃げた。母や姉も助かったが3歳の泰司さんを見つけられなかった。下敷きになった祖父は亡くなった。

 一家は生死も分からぬ泰司さんを捜して焼け跡に通い、父博さん(99年に87歳で死去)の復員後も続けた。手がかりはなく、博さんの手記(71年刊の「広島原爆戦災誌」収録)によれば、3回忌や7回忌の法事をしたという。富美子さんも「お兄ちゃんは原爆で死んだ」と聞いて育った。

親を捜す記事

 再会のきっかけは、60年10月4日付朝日新聞に載った孤児の親を捜す記事。瀬川さん夫妻は、紙上の少年の写真に泰司さんの面影を見る。

 ただ、名前は「中村克己」。五日市町(現佐伯区)にあった45年末開設の広島戦災児育成所に入った際、まだ幼く自分の名前を言えなかったために付けられた。被爆後に誰かに助けられ、比治山国民学校(現南区の比治山小)の迷子収容所で命をつないだ後、原爆で親を失った子どもたちを受け入れる育成所へと移っていた。

 夫妻は記事が載った8日後の12日、童心園(育成所から改称)を訪ね、すでに就職していた「中村克己」さんと対面。親子関係の明確な証拠はないが、きょうだいと顔が似ていることなども含め泰司さんと判断した。翌13日付本紙は、「原爆で引き裂かれた運命」の見出しで再会を伝えた。

 泰司さんの反応は「突然のことでどういったらいいかわからない」(同記事)。両親は被爆死したと思っていた。57年には、遺族代表として平和記念公園での平和記念式典に参列。「お父さん、お母さんこんなに大きくなりました。安心して眠ってください」と原爆慰霊碑に花輪をささげていた。

兄の記憶なく

 富美子さんも程なく15年ぶりに再会。被爆時に1歳だっただけに兄の記憶はなく、本人なのだろうかという思いが「1%くらいあった」と明かす。修業先に来てくれた際には洗髪した。「私が『妹ができてうれしい?』と聞くと、『それはうれしいよ』と答えてくれました」。ただ、やはり兄の戸惑いも感じた。

 一方で、父は後の手記(89年の二葉公民館発行の「原子爆弾 広島の姿」)で、再会直後の泰司さんの心境を理解しつつ「自分たちの息子と信じる心は、もうどうしようもなく根を降ろしていた」と振り返っている。

 泰司さんは本名に戻り、1年余り両親と暮らし、会社の寮へ移った。その後も、正月などには親元を訪ねた。結婚し、娘2人を育てた。

 「家族第一の父だった」と次女の多佳子さん(52)=防府市=は言う。旅行や広島東洋カープの試合に何度も連れて行ってくれた。92年、がんのため50歳で死去。「父は見舞いに来た祖父母に『おやじ、おふくろさん、ありがとうございました』と伝えてから亡くなりました」  (下高充生)

(2025年4月7日朝刊掲載)

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