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[ヒロシマドキュメント 1946年] 4月 米調査団 人や街を撮影

 1946年4月。米戦略爆撃調査団の撮影班が広島市で活動を続けていた。カメラマンとして加わったハーバート・スッサンさん(85年に63歳で死去)は、街の様子や被害者たちの姿をカラー映像と写真で記録した。

 3、4月の2カ月ほど滞在。市役所での遺骨の引き渡しの様子や、熱線の跡が残る万代橋などを撮影した。爆心地から約1・4キロの広島逓信病院(現中区)では、体に被爆の傷が残る入院患者たちを屋上に連れ出して写した。

 当時22歳の沼田鈴子さんは、けがをした左足首の傷口が悪化したため太ももを切断していた。蜂谷道彦院長に「協力してあげて」と頼まれ、着物を着て松葉づえを突いて向かった。看護師に包帯を取り除かれ、切断部があらわに。嫌だったが、スッサンさんに「痛かったでしょうね」と声をかけられ、フィルムに納まった。

 長女のレスリーさん(72)=米メリーランド州=によると「父は人間を記録し、原爆がもたらしたことを伝えたかった」という。スッサンさんは、米国は核兵器への関与をやめるべきだと国民に伝える映画を作るのを目標にしていたが、帰国後、撮りためたフィルムは「機密扱い」となる。

 トルーマン大統領に公開を求める手紙を送ったが、かなわなかった。意に反し、次の戦争のための教材にもなる軍事教育用の映画製作への使用を提案されると、47年に軍を退いた。その後は長くテレビプロデューサーを務めた。

 フィルムは、米国立公文書館などに保管されていた。80年代前半に始まった、広島市民の寄付金で買い戻し、記録映画の製作につなげる草の根の「10フィート運動」によって日の目を見る。(山本真帆)

(2025年4月5日朝刊掲載)

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