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[ヒロシマドキュメント 1946年] 4月 新入生 学校生活始まる

 1946年4月。広島市内の各学校で入学式が開かれた。比治山国民学校(現南区の比治山小)では、新1年生がクラスごとに記念写真を撮り、学校生活を始めた。

 当時6歳で大洲町(現南区)に住んでいた吉田弘子さん(85)=東区=は、母が2月に弟を出産したため、祖母に付き添われて初めて登校した。自身は自宅で被爆。家族は無事だったが、連日のように近所の人が亡くなり、大八車で連れて行かれた。「入学式といっても決して明るい雰囲気ではありませんでした」

 爆心地から約2・8キロで半壊した学校は45年秋には授業を再開。46年2月まで比治山迷子収容所が設けられ、段階的に修繕されていた。同じクラスの約50人は髪が抜けた子や縫い合わせた靴下をはいた子たち、さまざまな事情の同級生が集まっていた。

 46年度当初の全校児童数は1460人。当時の教員は「落着きを失い、希望も失い、は気のない者が多い感を深くいたしました」(58年刊の創立30年記念誌)。教科書などの勉強道具はなく、授業中にDDT(殺虫剤)でシラミを取る日々。オルガンの伴奏で歌うのが唯一の授業らしい授業だった。

 「何よりも空腹でした」と吉田さん。鉄道草(ヒメムカシヨモギ)を取りに行って教員に団子にしてもらった。食料が何もない時は、体力を使わないよう、校庭の日陰でみんなでじっと耐えた。1学期が終わるころに同級生が亡くなり、葬儀にも参列した。

 校舎が全壊全焼した広島一中(現国泰寺高)は、大河国民学校(現南区の大河小)の講堂を借りて入学式をし、300人が参加した。同様に校舎を失った神崎国民学校(現中区の神崎小)は3月に再開後も、児童たちは近隣の本川、舟入の各国民学校に分かれて通った。(山本真帆)

(2025年4月8日朝刊掲載)

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