戦艦大和 沈没80年 建造地の呉 300人が悼む
25年4月8日
呉市で建造された戦艦大和が鹿児島県沖に沈没して80年となる7日、同市上長迫町の長迫公園(旧呉海軍墓地)で追悼式があった。遺族や市民たち約300人が、犠牲となった3千人余りの乗員たちを悼んだ。(栾暁雨)
遺族たちでつくる戦艦大和会が主催。小笠原臣也会長(90)は「戦争の惨禍を伝えるわれわれの使命の重要性は一層高まっている」とあいさつした。参列者は乗員の名前を刻む碑前に花を手向けた。大和の最後を詠んだ漢詩の吟詠もあった。
3332人の乗組員のうち、生還したのは276人とされる。生還者と連絡を取っていた呉市の郷土史家の相原謙次さんによると、2023年末までに全員が亡くなったとみられるという。
父の脇本一夫さん(当時27歳)を亡くした森野輝子さん(81)=兵庫県西宮市=は「父と過ごした記憶はないが、平和な世界で一緒に暮らしたかった」と手を合わせた。
80年前、沖縄特攻作戦に向かう戦艦大和に、上官と部下として乗り組んだ2人の男性。戦死した海軍大尉の藤本弥作さん(当時44歳)と、生還した上等兵曹の岸本輝夫さん(1981年に67歳で死去)の息子同士が、7日の追悼式に合わせて、初めて対面した。
「80年を経て、会えたことに感激です」。元広島市立大学長の藤本黎時さん(93)=広島市安佐南区=の言葉に、輝夫さんの長男政光さん(77)=東京都=は涙を浮かべた。
輝夫さんは大和について語らなかった。だが、酔うと「藤本大尉」とつぶやいた。政光さんが気になっていた名前は、父の死後に机から見つけた手記にもあった。美しい字で艦上の日々がつづられていた。弥作さんの部屋で酒杯を傾けたこと、「大和は不沈艦だよ」と会話が弾んだこと…。
手記には、大和の沈没前、爆弾の直撃で手足を失った死体が転がる様子も生々しく書かれていた。部下32人を率いた輝夫さんの班の生還者は3人だけ。政光さんの想像を超える修羅場だった。
酒をあおる父を見てきた政光さんは「悲惨な体験の記憶や、生還した後ろめたさから逃れるためだったと、今では思う」と打ち明ける。「もっと父の話を聞いておけば」との思いが募る中で昨夏、新聞で藤本さんのインタビューを目にした。
市立大を通じて連絡を取り、輝夫さんの手記を送って交流が始まった。政光さんは「二度と戦争をしてはいけないと書き残した父の思いを藤本さんと共有できた」。藤本さんは「父同士が近づけてくれた縁に感謝ですね」。追悼式の朝、2人は満開の桜の下で固く手を握った。(栾暁雨)
戦艦大和
旧海軍が建造した世界最大の戦艦。全長263メートル。射程40キロを超える主砲を搭載したが、海戦の主役は航空機に移り、性能を発揮する機会はなかった。沖縄の海岸で砲台の代わりになる「海上特攻」の命令を受け、母港・呉を出て徳山(現周南市)沖から出撃。米軍機の猛攻を受けて鹿児島県沖で沈没した。
(2025年4月8日朝刊掲載)
遺族たちでつくる戦艦大和会が主催。小笠原臣也会長(90)は「戦争の惨禍を伝えるわれわれの使命の重要性は一層高まっている」とあいさつした。参列者は乗員の名前を刻む碑前に花を手向けた。大和の最後を詠んだ漢詩の吟詠もあった。
3332人の乗組員のうち、生還したのは276人とされる。生還者と連絡を取っていた呉市の郷土史家の相原謙次さんによると、2023年末までに全員が亡くなったとみられるという。
父の脇本一夫さん(当時27歳)を亡くした森野輝子さん(81)=兵庫県西宮市=は「父と過ごした記憶はないが、平和な世界で一緒に暮らしたかった」と手を合わせた。
乗員の息子同士 初の対面
「戦争二度と」思い共有
80年前、沖縄特攻作戦に向かう戦艦大和に、上官と部下として乗り組んだ2人の男性。戦死した海軍大尉の藤本弥作さん(当時44歳)と、生還した上等兵曹の岸本輝夫さん(1981年に67歳で死去)の息子同士が、7日の追悼式に合わせて、初めて対面した。
「80年を経て、会えたことに感激です」。元広島市立大学長の藤本黎時さん(93)=広島市安佐南区=の言葉に、輝夫さんの長男政光さん(77)=東京都=は涙を浮かべた。
輝夫さんは大和について語らなかった。だが、酔うと「藤本大尉」とつぶやいた。政光さんが気になっていた名前は、父の死後に机から見つけた手記にもあった。美しい字で艦上の日々がつづられていた。弥作さんの部屋で酒杯を傾けたこと、「大和は不沈艦だよ」と会話が弾んだこと…。
手記には、大和の沈没前、爆弾の直撃で手足を失った死体が転がる様子も生々しく書かれていた。部下32人を率いた輝夫さんの班の生還者は3人だけ。政光さんの想像を超える修羅場だった。
酒をあおる父を見てきた政光さんは「悲惨な体験の記憶や、生還した後ろめたさから逃れるためだったと、今では思う」と打ち明ける。「もっと父の話を聞いておけば」との思いが募る中で昨夏、新聞で藤本さんのインタビューを目にした。
市立大を通じて連絡を取り、輝夫さんの手記を送って交流が始まった。政光さんは「二度と戦争をしてはいけないと書き残した父の思いを藤本さんと共有できた」。藤本さんは「父同士が近づけてくれた縁に感謝ですね」。追悼式の朝、2人は満開の桜の下で固く手を握った。(栾暁雨)
戦艦大和
旧海軍が建造した世界最大の戦艦。全長263メートル。射程40キロを超える主砲を搭載したが、海戦の主役は航空機に移り、性能を発揮する機会はなかった。沖縄の海岸で砲台の代わりになる「海上特攻」の命令を受け、母港・呉を出て徳山(現周南市)沖から出撃。米軍機の猛攻を受けて鹿児島県沖で沈没した。
(2025年4月8日朝刊掲載)