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連載・特集

戦後80年 芸南賀茂 大和追悼 <上> 心に封じた「死なないで」

 呉で建造された戦艦大和が鹿児島県沖で沈没して7日で80年。元広島市立大学長で呉市出身の藤本黎時さん(93)=広島市安佐南区=の父弥作さん(当時44歳)は、沖縄特攻作戦に向かう大和に乗務し、巨艦と運命を共にした。親子の最後の語らいは「名誉の戦死」の知らせが相次ぐ1945年3月。弥作さんは「お父さんにそろそろ、戦死してほしいと思っているんじゃないか」という言葉を残し、任務に赴いた。(栾暁雨)

広島の藤本さん 出撃した父へ思い

無謀な作戦 憤り今も

 呉市西惣付町の自宅で、親子で夕食を取っている時だった。地上戦が始まった沖縄への出撃を控えた3月26日のこと。父が発した一言に13歳の藤本さんは身を固くした。「死なないで」と伝えたかったが、「非国民」という言葉が頭をよぎり返事できなかった。

 「息子に肩身の狭い思いをさせたくない気持ちがあったのでしょう」。冗談好きだった父の言葉の意味を藤本さんは推し量る。戦況の悪化で戦死者が相次ぎ、海軍大尉だった弥作さんは「元気な姿を見られるのは面目ない」と、暗くなってから帰宅していた。

 弥作さんは今の岩国市出身で18歳で志願兵となった。さまざまな軍艦で勤務し、40年8月、進水式を終えた大和の船体に装備を施す「艤装(ぎそう)員」に任命され、地上勤務になる。休日には設計図を卓上に広げ、熱心にメモしていた。乗務に備えて最新鋭艦の構造を頭に入れようとしたのだろう。

 日米開戦後、大和は連合艦隊の旗艦としてたびたび出撃する。父の帰宅は減った。45年4月7日、米軍機の猛攻を受けた大和は3千人余りの乗員とともに海に沈んだ。

 藤本さんは、最後の出撃を前に弥作さんが「日本は戦争に勝てない」とつぶやいたことを鮮明に覚えている。特攻という無謀な作戦を命じた軍部への憤りは消えない。一方、職業軍人の父や、学徒動員で魚雷の部品を作っていた自分自身、兵器の生産拠点だった呉という街も戦争の加害者だと考えるようになった。

 「父を『英霊』とは呼びたくない。戦争の記憶が風化する中、国が若い命を無駄にした事実を忘れてはいけない」

(2025年4月8日朝刊掲載)

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