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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1963年12月 原爆裁判の判決

違法な戦闘行為 認める

 1963年12月7日。東京地裁での「原爆裁判」は提訴から約8年半を経て、判決を迎えた。原告は広島や東京などの被害者5人(うち1人は判決前に死去)。米軍の原爆投下は国際法に違反すると訴え、戦争から生じた米国への請求権をサンフランシスコ平和条約(52年発効)で放棄した日本政府に損害賠償を求めていた。

 原水爆禁止と原爆被害者救済の弾みにしようとする異例の訴訟。記者が詰めかけた法廷で、古関敏正裁判長は、請求への結論を示す主文を後回しにし、原爆投下が違法か否か、から読み上げた。「当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」(判決文)

 理由の一つは、非軍事目標・非戦闘員に被害を与えた無差別性。もう一つは、戦後も続く原爆放射線の影響が「不必要な苦痛を与える兵器」の使用に当たる点を挙げた。いずれも国際法のハーグ陸戦条約が禁じていた。

 違法ではないと主張する被告の日本政府と異なる判断で、日本の国際法学者3人が出した鑑定書を踏まえて導き出した。2人が「違反」、残る1人も「違反と判断すべき筋が強い」と指摘していた。一方、鑑定に基づき、個人は国と違って国際法上の賠償請求権が一般的に認められていないなどとして、請求は棄却した。

「政治の貧困」

 その上で、政治には「十分な救済策」を求めた。「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだ」と強調。原爆被害の甚大さや原爆医療法(57年施行)の不十分さも挙げ、「政治の貧困を嘆かずにはおられない」と結んだ。

 原告側の弁護士の松井康浩さんは、棄却を残念がったが「平和を希求する世界の人々に大きな勇気を与えた」(関係者への手紙)と判決を評価した。子ども5人を原爆で失った原告の下田隆一さんは広島から松井さんに手紙を送り、違法判断への喜びを伝えた。敗訴した形だが、控訴せず、判決は確定した。

 「国際法上違反と明記した点でなにかすっきりしたものを感じる」(広島折鶴の会世話人の河本一郎さん)、「大きな警告となろう」(トルーマン元大統領への抗議に関わった市議の任都栗司さん)…。本紙も判決に意義をみる地元の声を伝えた。ただ、勝訴で控訴できなかった政府は判決後の国会でも「違反と判定する根拠はない」などと従来の主張を続けた。

被爆者励ます

 日本被団協の理事長だった森滝市郎さんによれば、判決にあった「政治の貧困」の指摘が「被爆者を感動させ立ち上がらせた」(70年の本紙寄稿)。原水禁運動の分裂の余波で被爆者運動が停滞していた時期だった。

 日本被団協は3年後の66年、「原爆被害の特質と『被爆者援護法』の要求」(つるパンフ)を作成。原爆裁判の判決を引用して被害者救済に向けた国の責任を訴え、国家補償に基づく保健手当や弔慰金の支給を掲げた。

 判決を弾みとした運動の末、68年には健康管理手当支給などを定める被爆者特別措置法が制定される。ただ、医療法と合わせても、求める援護法にはほど遠かった。(編集委員・水川恭輔)

(2025年4月9日朝刊掲載)

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