緑地帯 わが隣人民喜 片山典子 <3>
09年12月18日
1999年、初冬。私は初めて白島にある円光寺を訪れた。原民喜の墓は、目立たないところにひっそりとあった。墓石には、平和公園の原爆ドームそばの詩碑にあるのと同じ、絶筆である4行詩「碑銘」が刻まれていた。
「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ堕つ 天地のまなか/一輪の花の幻」。詩句に見入ったまま、しばらく身動きができなかった。十数年ぶりに対峙(たいじ)して読み返した「夏の花」の静謐(せいひつ)さが、「花の幻」という詩句と不思議に響きあってくるのを感じた。
ここに来たのには、訳があった。当時、広島市中央公民館で企画されていた、幟町中学学区の歴史ガイドブックの原稿を執筆するためである。制作スタッフ募集の広報を見て、スタッフの一員に加わった。コンセプトは、市民の目で見、歩いてこそ発見できる、暮らしの中の歴史のかけらに注目しよう、というものだ。
だから、さりげなく街に残っている手押しポンプや、京橋川の雁木(がんぎ)などにも目を向けた。東照宮など、一般の歴史ガイドでも取り上げられるような主要地点でも、市民ならではの着眼点を大切にした。饒津神社のこま犬は、後ろの片足を上げていることなどが、その一例だ。
その後、ガイドブックは無事完成したが、私の心は、いかりを下ろされた舟のように揺曳(ようえい)していた。民喜の作品の中に感じた言葉の重み。ガイドブックの仕事の続きに、やり残している何かが、まだあるような気がした。民喜に関する地元での調査は、まだ十分とはいえない状態だった。ごく身近に、拾いあげておくべきものが、まだたくさんあるはずだ。これが民喜との再会だった。(広島花幻忌の会会員=広島市)
(2009年12月18日朝刊掲載)
「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ堕つ 天地のまなか/一輪の花の幻」。詩句に見入ったまま、しばらく身動きができなかった。十数年ぶりに対峙(たいじ)して読み返した「夏の花」の静謐(せいひつ)さが、「花の幻」という詩句と不思議に響きあってくるのを感じた。
ここに来たのには、訳があった。当時、広島市中央公民館で企画されていた、幟町中学学区の歴史ガイドブックの原稿を執筆するためである。制作スタッフ募集の広報を見て、スタッフの一員に加わった。コンセプトは、市民の目で見、歩いてこそ発見できる、暮らしの中の歴史のかけらに注目しよう、というものだ。
だから、さりげなく街に残っている手押しポンプや、京橋川の雁木(がんぎ)などにも目を向けた。東照宮など、一般の歴史ガイドでも取り上げられるような主要地点でも、市民ならではの着眼点を大切にした。饒津神社のこま犬は、後ろの片足を上げていることなどが、その一例だ。
その後、ガイドブックは無事完成したが、私の心は、いかりを下ろされた舟のように揺曳(ようえい)していた。民喜の作品の中に感じた言葉の重み。ガイドブックの仕事の続きに、やり残している何かが、まだあるような気がした。民喜に関する地元での調査は、まだ十分とはいえない状態だった。ごく身近に、拾いあげておくべきものが、まだたくさんあるはずだ。これが民喜との再会だった。(広島花幻忌の会会員=広島市)
(2009年12月18日朝刊掲載)