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連載・特集

緑地帯 わが隣人民喜 片山典子 <4>

 被爆シダレ柳のある川岸から道路1本隔ててのはす向かいに、原民喜の末弟、敏さん(故人)のご自宅がある。親類と養子縁組をした敏さんは、村岡姓である。妻の裕子さんは、10年前に私が地元で民喜の足跡をたどり始めたころ、最初にお話を伺った方だ。

 敏さんは、民喜が千葉で文筆活動をしていたころ、明治大ホッケー部に所属していた。1936年のベルリン・オリンピックには、選手として出場している。

 これには民喜も大層喜び、4通もの手紙を送っている。4月30日付、第1便は次のような書き出しだ。

 「今朝 早くから女房が起こすのである それから一日中オリンピックのことを云って女房は浮かれ たうたう我慢が出来ないと云(い)ふので速達を出すといふのである」。文末は、「村岡敏君 万才」と結ばれている。広島出身の妻、貞恵さんの手紙も同封されており、明るく弾んだ民喜夫妻の様子がうかがえる。

 その村岡敏さん宅で、つい最近、文芸評論家で、貞恵さんの弟でもある佐々木基一から裕子さんにあてた書簡が見つかった。

 大学時代には千葉の民喜宅で敏さんとよく一緒になった、との回想談に続けて、敏さんがベルリンにたつ際に、民喜夫妻と東京駅へ見送りに行った時の思い出がつづられている。大変な人込みで、敏さんの顔も見られない状況の中、「民喜さんが人をかき分けて無我夢中で敏さんたちの車輌の前へ突進しました。」

 思わず笑みがもれてしまう。極端に無口で、非常に内向的な人だったと伝えられる民喜の、意外な一面。この書簡も、民喜の手紙とともに村岡家に保管されている。(広島花幻忌の会会員=広島市)

(2009年12月19日朝刊掲載)

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