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連載・特集

緑地帯 わが隣人民喜 片山典子 <5>

 管絃祭前日の夜の行事(御供船(おともんぶね))は、戦前の京橋かいわいでは、親しみを込め「おとぼん船」と呼び習わされていた。子供のころ、たった1度、京橋川にやって来たのを見た記憶がある。母と一緒に見に行ったが、お迎えの人の姿はまばらだった。お神酒を振る舞われることもなく、暗い護岸に立つ私たちの前で、船は旋回して寂しく帰っていった。昭和52か53年のことである。

 昭和8年生まれの父にも、「おとぼん船」の記憶はあまりないという。江戸時代から大正のころまで盛んだったということだが、父の記憶にある戦前は、昭和10年代だ。もう戦争の気配が忍び寄ってきていたためかもしれない。

 だが、原民喜によって、私はあの日の薄暗い記憶に華やかな彩りを添えられた。昭和25年12月7日、中国新聞紙上に寄せた「広島の牧歌」からの抜粋。「昔、管絃祭の夜には京橋の明神の浜におとぼん船がやって来た。橋の上にはぞろぞろと人がひしめきあって、船の上で行はれる十二神祇を見てゐる。かがり火が水に映り、衣装の金糸銀糸が火に照らされて-それを見ていると子供の私には、これはまるで幻夢の世界であった」

 民喜は、この文章が掲載された翌年の3月に自殺している。死の直前まで、彼は故郷の懐かしい姿を忘れることができなかったのだろう。「今も私は消滅した郷里の牧歌―そこにはともかく子供らしい安定感があった―を書き残しておきたいとしきりに夢見る。と同時に既に原爆によって変形させられた魂はつねに無からの出発を強いられてゐることを意識するのである」。結びの言葉に、抉(えぐ)られた魂の痛みがつらく刺さる。(広島花幻忌の会会員=広島市)

(2009年12月22日朝刊掲載)

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