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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1964年春 ある被爆者の上京

発展実感 偏見にも直面

 1964年春。当時19歳の佐久間邦彦さん(80)=広島市西区=は、生まれ育った広島市を離れ、東京YMCAホテル専門学校に入学した。英会話に接客、食材やワインの知識…。10月の東京五輪開幕を控えた都内で、ホテルスタッフとして働く基礎を学び始めた。

胸に刺さる声

 「被爆者は結婚できない」―。広島にいたときは、どこからともなく聞こえてくる心ない声が胸に突き刺さった。将来のためにも「原爆から逃れたい」という渇望が膨らんでいた。「背負った十字架から解放され、チャレンジしてみようと思い立ったんです」

 生後9カ月の時、今の西区己斐の自宅で被爆。元気に育ったが、10年ほどして腎臓や肝臓を悪くし、小学校に行けない時期があった。同じ頃、2歳で被爆した佐々木禎子さんが白血病のため12歳で亡くなり、「自分と重ねた部分があった」。

 やがて、禎子さんの級友たちが呼びかけた「原爆の子の像」の建立運動に参加。同様に取り組んでいた広島YMCAの活動に加わるようになった。

 山陽高(現西区)を卒業後、一度は広島県内の大学に進んだが、中退。広島YMCA総主事で、平和運動に尽力した相原和光さん(2006年に89歳で死去)に進路を相談したところ、「これからは海外の人がたくさん来る時代になる」とホテルの勉強を勧められた。

 東京五輪では、学校の勉強の一環で、各国のメディアが詰めるプレスセンターのレストランでウエーターとしてボランティアをした。男子マラソンを世界新記録で制したアベベ選手(エチオピア)を間近で見た。合間に、国立競技場ものぞいた。「青春時代の良い思い出」と話す。

ホテルに就職

 翌65年、東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトルホテル東急)に就職した。ビートルズが66年に日本武道館公演のため来日した際は宿泊先となり、出くわしたことも。日本の戦後復興、経済発展を実感する日々だった。ただ、原爆で負ったケロイドや「原爆症」が週刊誌などで盛んに報じられ、東京でも被爆者への冷たいまなざしを感じた。

 交際していた女性との結婚を考え、都内の両親に会いに行ったとき。自己紹介し、広島での被爆も打ち明けた。すると、席を外していた母親が、佐久間さんの交際相手に向けて語った言葉が聞こえてきた。「広島の人?どうして?」

 「東京に行けば原爆から逃れられるという思いがあったから、ショックでした。原爆というものは、時間がたってからこんな被害まで生むのかと」。20歳を過ぎたばかりの青年はかみしめた。

 佐久間さんは東京での生活を諦め、68年に帰郷。再就職した会社に勤めた。定年後の2006年から広島県被団協の被爆者相談所の相談員を始め、「被爆者」の重荷を背負い続けてきたさまざまな人の痛みに向き合う。15年から県被団協の理事長を務めている。(下高充生)

(2025年4月10日朝刊掲載)

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