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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1964年5月5日 被爆者らの平和巡礼団

元大統領の謝罪なく落胆

 1964年5月5日。当時33歳の廿日市高教諭、森下弘さん(94)=広島市佐伯区=は、米ミズーリ州インディペンデンス市のトルーマン図書館を訪ねた。「広島・長崎世界平和巡礼団」の一員として、市内に住む原爆投下時の大統領トルーマン氏との会見に臨んだ。

 講堂の壇上に現れたトルーマン氏は79歳。大統領を退いて11年たっていた。会見は、代表して被爆者の松本卓夫団長(広島女学院大元学長)と対談する形がとられた。握手を交わす2人を見守った森下さんは「原爆投下前に一般市民の存在を考えなかったのか聞きたかった」と思い起こす。

 広島一中(現国泰寺高)3年だった19年前、市内での建物疎開作業中に熱線に焼かれた。やけどはケロイドになり、顔にも残った。自宅で被爆した母が犠牲になった。

幼い命のため

 教員となった戦後は高校で書道を教え、時には生徒に被爆体験を話した。被爆者たちが各国を回り、体験や思いを伝える「平和巡礼」には62年の第1回参加者の報告集会で関心を抱いた。「第2回をすると聞いて飛びつきました」

 提唱者は広島の米国人平和活動家バーバラ・レイノルズさん(90年に74歳で死去)。巡礼団の趣意書には「全世界の大衆に平和のかがり火を燃えあがらせる」と掲げた。第2回参加者は主婦や医師、宗教者たち総勢約40人で、うち25人が公募で選ばれた被爆者だった。64年4月から75日間、計8カ国150都市を巡った。

 森下さんは前年に生まれた長女の姿からも、幼い命まで奪う惨禍を繰り返さないための行動へ駆り立てられた。勤め先を休み、最初に渡った米国では支援者宅でホームステイしながら学校や集会で証言した。「熱心に聞いてくれ、非常にうれしかったです」

「必要でした」

 巡礼団側の会見申し入れに応じたトルーマン氏も壇上でほほ笑みをたたえ、「会えてうれしい」と述べた。ただ地元紙によると、被爆者と初めて向き合ってなお、原爆投下は戦争の早期終結が目的とし、「必要でした」などと従来の説明を繰り返した。会見時間は5分。謝罪はなかった。

 被爆者からはため息が漏れ、森下さんは「あっけにとられた」。夜、悔しさに震えながらメモ帳に「幼ない命の沢山(たくさん)あることを考えなかったか」とペンを走らせた。

 一方、原爆開発を指揮した物理学者オッペンハイマー氏も6月5日、被爆者で物理学者の庄野直美さんたち巡礼団の一部と会った。NPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC、中区)に残る、同行した通訳タイヒラー曜子さん(2019年死去)の証言映像によれば「『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」。

 巡礼団は米国と同じく核を持つソ連や、東西ドイツでも証言を重ね、7月4日に帰国した。レイノルズさんは翌年、各国から広島を訪れる人が被爆証言や平和への思いを共有するWFCを市内に創立する。森下さんもセンターの活動に加わる。(山下美波)

(2025年4月11日朝刊掲載)

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