文沢隆一さんをしのぶ 元広島女学院大教授 宇吹暁さん 原爆資料集め 「きのこ会」下支え
25年4月11日
「どう関われるか」 自らに問い
作家活動の傍ら、原爆被災資料広島研究会の一員として「原爆手記」などの収集、整理に力を尽くし、胎内被爆した原爆小頭症患者と家族たちでつくる「きのこ会」の初代事務局長も担った文沢隆一さん(廿日市市)が昨年5月、96歳で亡くなった。被爆関係資料を研究する元広島女学院大教授の宇吹暁(さとる)さん(78)は「ヒロシマ史を語る上で欠かせない人」としのぶ。生前の交流を振り返って、その人柄や功績を語ってもらった。
文沢さんと最初に出会ったのは1973年。呉市であった中高の歴史教員たちが集う勉強会、呉歴史教育者協議会の例会の席でした。中国放送に勤め、「きのこ会」を共に支えていた秋信利彦さん(2010年、75歳で死去)と一緒に広島から参加された。当時、広島県史編さん室にいた私も出席していました。
お二人は、呉空襲をはじめ一般空襲にもしっかり向き合い、被害者支援を広げていこうという趣旨の話をされた。「きのこ会」にも通底する視座でしょう。文沢さんは物腰は謙虚だが、高い見地から話される。圧倒されました。
さらなる「出会い」は、原爆文学や被爆体験記、占領期文献などを網羅した「原爆被災資料総目録」のお仕事を通じてです。文沢さんは、第4集まであるうち72年刊の第3集「原爆手記」の編集主任を務めた。46年から71年までに出された2229編の手記を集め、丁寧な抜粋で目録化しています。
これは私にとって、原爆手記の研究をする出発点となった。すごい仕事です。役に立つ箇所を「つまみ食い」する歴史家の振る舞いとは違う。巧拙で上下をつけることなく、一つ一つの手記を読み込んで、おろそかにしない。「資料屋」を自任する私ですが、文沢さんの姿勢に学ばせてもらった。
文沢さんの仕事で最も知られているのは、岩波新書「この世界の片隅で」(山代巴編、65年)の冒頭に収録されているルポルタージュ「相生通り」でしょうか。相生橋から三篠橋のたもとまで続いていた、川岸のバラックに住む人々の暮らしを、自らもそこに住み込んで描き出した。
むき出しの貧苦を生々しく描いていますが、筆者の目は温かい。自分がどう関われるか、という視点で書いている。原爆手記の編集などにも貫かれている姿勢だと思います。
控えめな人で、集会で大きな声を上げるタイプではなかった。「きのこ会」の事務は大変な仕事だったでしょうが、自己アピールすることは全くなかった。しかし、どの運動でもそういう人が欠かせないし、そういう人がいるからこそ続くのだと思います。
文沢さんが活躍した時代からは、時が経過しました。それでも、その仕事から今も学ぶべきことは多い。原爆関係のルポでいえば、それぞれの時代に、それぞれの生々しい証言はあるはずです。文沢さんが残した文章に触れる機会があれば、きっと考えさせられることでしょう。
文学の作家としての文沢さんについて私は語り得ませんが、文沢さんと共通する形質を持った文学少年、文学少女は今もいるはずです。出てきてほしい、と思います。いつの時代にも必要な「運動」があり、編まれるべき「手記集」があるのではないでしょうか。(談)
ふみざわ・りゅういち
広島県北広島町生まれ、本名は増本勲一。東京大哲学科卒。「安芸文学」同人となり、1963年、「原爆」の語を用いずにヒロシマを描いた小説「重い車」で群像新人賞。著書に「鷗外をめぐる女たち」(92年)「ヒロシマの歩んだ道」(96年)「日本語の空間」(全3巻、2007―10年)ほか。
(2025年4月11日朝刊掲載)