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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1965年11月 在韓被爆者取材

治療を求める声相次ぐ

 1965年11月。中国新聞編集委員だった当時37歳の平岡敬さん(97)=広島市西区=は、戦後初めて韓国に渡った。ソウル中心部を流れる清渓川の土手に密集したバラックを訪ねると、広島の被爆者がいた。日本からも韓国からも支援の手を差し伸べられておらず、口々に訴えた。「治療してほしい」

 その5年前、編集局に日本語で書かれた一通の手紙が届いた。送り主は韓国・馬山で入院中の男性。広島で被爆したといい、救いを求める内容だった。

自費で韓国に

 父が石炭事業を手がけていた朝鮮半島で終戦を迎えた平岡さんは、韓国への関心が人一倍強かった。手紙を読み、在韓被爆者について「朝鮮半島出身者への差別感情を背景に社会的な関心が低く、被爆したのは日本人だけだと思われていた時代。彼らの訴えに応えないといけないと思いました」。担当した被爆20年の連載が終わると自費で韓国に飛んだ。

 韓国政府は当時、国内に住む被爆者数を調べて203人とまとめたが、実態はつかめないままだった。在日本大韓民国居留民団広島県本部は65年5月、実態調査と救援対策を韓国政府に求めるため、訪問団を派遣。7月28日付本紙によると、一行の要請を受けた韓国社会保健部と韓国赤十字社がより詳細な状況をつかむため再調査をしていた。

 平岡さんはこの年に国交正常化する韓国の現状を伝えようと政治、文化、経済を主なテーマに連載企画を練ったが、15日間の滞在で最も時間を割いたのが在韓被爆者の取材だった。韓国赤十字社にある名簿を頼りにソウルと釜山で被爆者を捜し歩き、9人に会えた。

 ソウルの貧しい住宅地で出会った女性は、国民学校6年生の時に御幸橋上の電車内で被爆し、顔から首筋にケロイドがあった。おばのチマ(スカート)を盗んで手術費を捻出したが、消えなかった。3度の流産、繰り返すめまい…。周囲の理解も低く、費用がかかるため病院に行くのも難しかった。

問題意識強く

 「被爆は国外で起こったことで、米軍の原爆投下で解放されたとの歴史観もあり、被爆者は韓国内で相手にされていなかった」。平岡さんは問題意識を強めた。帰国後の65年11月25日付から10回連載した「隣の国 韓国」では、最後の2回で「検診など夢物語り」「治療待つ六百人」との見出しを掲げて在韓被爆者の窮状を伝えた。

 その後も韓国へ渡り、被爆者への取材を続ける。「被害も加害もない交ぜになるのが戦争。韓国の被爆者のように国から見捨てられた存在を通じ、国家とは何かとずっと考えさせられてきました」

 同じように当時、日本の援護から漏れていたのが米国統治下の沖縄に住む被爆者だった。「沖縄に被爆者はいない」といわれ続けていた63年、広島で被爆した石垣島の女性が健康不安を地元の原水協に訴えたのを機に実態調査が始まった。

 翌64年8~9月、中国新聞記者の大牟田稔さん(2001年に71歳で死去)が全11回のルポ連載「沖縄の被爆者たち」に取り組んだ。原爆医療法が適用されず、専門医もいない環境下に暮らす被爆者の姿をいち早く伝えた。(山下美波)

(2025年4月14日朝刊掲載)

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