『記憶を受け継ぐ』 原田敬二さんー幼さ残る女学生「水を」
25年4月14日
原田敬二(はらだけいじ)さん(95)=広島市佐伯区
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望みかなえられず負い目「何とかしたかった」
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15歳で被爆直後の広島市内をさまよった原田敬二さん(95)は、やけどを負って水を求める女学生の望みをかなえられませんでした。今なお深い負い目を感じ「何とかしてあげられなかったのか」と声を詰(つ)まらせます。r>r>
当時は広島県立広島商業学校(現県立広島商業高)4年生でした。原爆投下の1週間前に小屋浦(現坂町)の修練所に入り、家族は奥海田村(現海田町)へ疎開(そかい)。県庁から中国地方総監府(そうかんふ)へ出向していた父貢(みつぐ)さんが広島市舟入川口町(現中区)の自宅(じたく)に残りました。r>r>
8月6日は修練所の休養日でした。疎開先へ向かい、母カズ子さんから父へ弁当を持って行くよう頼(たの)まれた時です。周囲が光り「地球全体が動揺(どうよう)した」。空に雲がもくもくと湧(わ)き、ピンク色を帯びました。r>r>
「広島がやられた」と近所の下級生から聞き、父を捜(さが)しに急ぎました。東大橋(ひがしおおはし)(現南区)で憲兵(けんぺい)に止められ、髪(かみ)を振(ふ)り乱(みだ)しぼろの布きれをまとったような人の行列を見て異変(いへん)を察します。いったん疎開先へ戻(もど)りますが、心配が募(つの)り再び市内へ向かいました。r>r>
東大橋で憲兵に事情を話し、通してもらいました。水主(かこ)町(現中区)まで来た時、煙(けむり)の中からまだ幼(おさな)さが残る女学生数人が現れました。髪は焼け全身傷(きず)だらけ、血のにじむ下着姿です。「水を飲ませて」とせがまれ、とっさに集めた空き缶(かん)で水道管から噴(ふ)き出る水をくんで差し出しました。r>r>
「こらー、女学生を殺す気か」。憲兵に怒鳴(どな)られ、仕方なく水を捨(す)てました。女学生はうらめしそうな表情を浮(う)かべ、姿を消しました。自分も後ろ髪を引かれながら住吉橋を渡(わた)ると、川面を無数の遺体(いたい)が埋(う)めています。あの女学生も水を求め川に飛び込んだかも―。姿が重なりました。r>r>
大破した自宅では、座敷(ざしき)に顔が膨(ふく)れた人が寝(ね)ています。「敬二、来てくれたか」。声で父と分かりました。水を持ってこいという父にちゅうちょしましたが、今度は一升瓶(いっしょうびん)で水をくみ存分(ぞんぶん)に飲ませました。その晩(ばん)は一緒(いっしょ)に横になり、父は真っ黒な小便をしたそうです。r>r>
翌7日、1人で奥海田村までの13キロを歩き、母の前でどっと涙(なみだ)を流しました。父を迎(むか)えに行くため、2歳上の姉素子(もとこ)さんと大八車を引いて自宅へ戻りました。痛(いた)みにあえぐ父を乗せ、連れて帰りました。r>r>
終戦後、学徒兵だった5歳上の兄一彦さんがすぐに復員し、父の代わりに市内へ通いました。r>r>
戦後は広島文理科大(現広島大)を出て、広島銀行などで働いた後、呉市の学校法人理事長を務めました。この間、原爆に苦しむ家族を目の当たりにしました。父は顔のやけど痕(あと)が盛(も)り上がり「人相が変わった」と言われました。顔の手術を2回受け、手の指の間は引っ付いたまま不自由な生活を強いられました。入市被爆した兄も姉もがんに侵(おか)されました。r>r>
自分は2000年に脳梗塞(のうこうそく)を患(わずら)い入院。ラジオで聞いた市の呼(よ)びかけに応じ被爆証言を始めました。「生かされている」と感じたためです。絵を描(か)いて語り、証言映像(えいぞう)の収録(しゅうろく)にも臨(のぞ)みました。r>r>
今年2月、自らの被爆体験記を出版し学校などへ贈(おく)りました。あの女学生や家族の苦しみも刻(きざ)みました。原爆を投下した米国に対し「罪を償(つぐな)う意味で核兵器廃絶と世界平和の運動の先頭に立ってほしい」と強く求めています。(山本祐司)r>r>
私たち10代の感想
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