[無言の証人] 革脚絆
25年4月14日
「無傷」に潜む悲しみ
軍人がすねに装着した革脚絆(かわきゃはん)。赤茶色のこの脚絆は無傷のように見えるが、1945年8月6日、米軍が広島に投下した原爆で被災している。
爆心地から約1・2キロの中国軍管区司令部(現広島市中区)の経理部で執務していた八木実さんが身に着けていた。八木さんは、全壊した建物の下敷きになり気を失ったようだ。翌7日に気が付くと、常葉橋(現常盤橋)下流の河原で寝かされていたという。左脚に裂傷を負い、頭を強く打って下顎は骨折していた。77年に広島師友会が発行した「原爆下の司令部 第二集」に寄せた手記に八木さんは、警防団員らしき人から差し出されたおむすびが食べられないほどだったとつづる。そのまま1年半もの療養生活を送った。
被爆当時の自宅は爆心地から約1・2キロの広瀬北町。一緒に暮らしていた祖母と妻は助かったものの、外で遊んでいた長男寛ちゃん=当時(4)=はあの日から行方が分からないまま。捜そうにも八木さんは体が動かず歯がゆい思いをしたようだ。体が動くようになってからは、手がかりが一行でもあればと原爆関連の文献を読みふけり、被災者名簿の公開があれば真っ先に駆けつけた。
被爆から30年近くたった73年、八木さんは革脚絆を原爆資料館へ寄贈。心身に深い傷を負った八木さんは、無傷の革脚絆を前に「不思議でなりません」と語っていたという。 (頼金育美)
(2025年4月14日朝刊掲載)