[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1965年2月15日 お好み焼き店開業
25年4月12日
孤児夫妻支え合い営む
1965年2月15日。梶山敏子さん(83)が広島市比治山本町(現南区)で、お好み焼き店「梶さん」を開いた。当時23歳で、前年夏に長男を産んだばかり。自宅に建て増しした4畳半の店舗に鉄板を置き、へらを握った。
「焼きながら、お客さんと話をするのが私の仕事。いいとこ取りよ」。会社勤めの夫昇さん(84)が朝5時から市場に行ってキャベツやもやしを仕入れ、仕事から帰った後は鉄板を磨いた。夫婦とも原爆に遭い、親を失った孤児。「物心ついた時がどん底だった。はい上がっていくしかなかった」と敏子さんは言う。
45年8月6日、敏子さんは上天満町(現西区)の自宅で被爆した。祖父たちに連れられて逃げ、途中に「雨」が降ったのは覚えているが、記憶はおぼろげだ。十日市町(現中区)へ建物疎開作業に動員された母は帰ってこなかった。
3年前に父を結核で亡くしており、4歳で孤児に。母方の祖父母に引き取られ、父方に行った一つ下の弟とも離れた。「めそめそせず、親がいないからと後ろ指をさされないよう生きてきた」。ただ、「母の日」に学校で、母親がいないために赤ではなく白いカーネーションをもらった時は惨めな思いをした。
小5でバイト
昇さんは比治山本町の自宅で被爆。大けがをした母は軍の救援トラックで運ばれたまま行方が分からず、遺骨も戻らなかった。父は45年春に南方で戦死。弟と共に、祖父母に育てられた。
クリスマスに靴下をぶら下げても、プレゼントが入っていたことはない。「明治生まれの祖父母には意味が分からなかったんでしょう」。子どもながら生きるために働いた。皆実小(現南区)5年の冬に菓子店でアルバイトを始めた。
2人は、広島大教授の森滝市郎さんたちが呼びかけた同じ境遇の子どもたちのグループ「広島子どもを守る会」に入る。「精神親」から誕生日プレゼントをもらうなど物心両面の援助を受けた。成長し、青年部の「あゆみグループ」でも一緒だったが、敏子さんは、昇さんと弟の「どっちがどっちか分からない」くらいの関係だったという。
62年の年明け、2人の結婚話が持ち上がる。グループを世話していた広島大教授の中野清一さんの仲介だった。放送局のスタジオを式場にした人気番組「テレビ結婚式」の出演者探しがきっかけだったが、「尊敬する中野先生がおっしゃるなら間違いない」(敏子さん)、「線路に乗せられてそのまま」(昇さん)。3月27日の式は全国に中継された。
価格500円貫く
梶山さん夫妻が店を開いたのは結婚3年後。自宅前にあったバラックのお好み焼き店が立ち退くタイミングで、昇さんの弟に勧められたのがきっかけだった。敏子さんの弟家族にも支えられ、時には客が子守をしてくれた。
89年に店の名前を「KAJISAN」に変え、2024年まで営業。精神親たち多くの人の支えに感謝し、昭和の終わりから肉玉そばは500円を守った。(下高充生)
(2025年4月12日朝刊掲載)