[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1970年4月21日 養護ホーム入所開始
25年4月17日
「原爆孤老」心身をケア
1970年4月21日。広島市舟入幸町(現中区)に開所した広島原爆養護ホームで、被爆者たちの入所が始まった。この日は広島原爆病院(同)から9人が到着。いずれも身寄りのない「原爆孤老」の63~86歳だった。22日付本紙は「仲良くしましょう」と打ち解けたり、「やっと落ち着きました」と喜んだりする姿を伝えた。
68年施行の被爆者特別措置法に基づき、広島県と市が共同で建設した鉄筋3階地下1階建て。居室は24室あり、定員は一般養護が100人、介護の必要性の高い特別養護が50人。食堂や機能訓練室、「寝たきりの被爆者をそのまま入浴させる機械設備」(本紙)のある浴室なども備えた。
散髪の奉仕や、地域の女性会による民謡、踊りの定期的な訪問も。71年には民間からの寄付で屋上に「サンルーム」ができ、レコード鑑賞や俳句会などレクリエーションの場となった。
生きがい失う
一方、市舟入被爆者健康管理所(71年11月に市立舟入病院に再編)の所長だった相坂忠一さん(94)=西区=たちのグループは71年6月、開設1年余りの入所者の状況を原爆後障害研究会のシンポジウムで発表。貧血や脳動脈硬化症、腎硬化症が目立ち、「医療による管理が重要」と指摘した。入所179人のうち16人が亡くなったとも報告した。
養護ホームの整備は自治体や被爆者たちからの要望が契機となった。ちょうど原爆孤老の抱える課題が注目されていた時期で、72年の市の初の実態調査には3394人が回答。健康状況は「病弱」「病気中」「寝たきり」が計55・3%だった。月収2万円以下は63・6%。「生きがいがない」と感じている人は64・9%に上った。
「目の前で家族が焼き殺されていくのを、救う手だてもなく、ただ見ているだけで、自分だけが生きのこったという、自責というよりもっと人間的なやりきれなさを背負って、戦後の三十数年を生きてきた」。ジャーナリストやケースワーカーが当事者の声をまとめた「原爆孤老」(80年刊)収録の座談会では、そう心情が代弁されている。
相坂さんも、被爆者に対する偏見などで孤立した「社会病」ともいえる問題を伴っていたと振り返る。「施設では同じような境遇の被爆者が語り合い、心の安らぎにつながっていた側面があった。放射線の影響に対する不安も含む原爆の被害の性質を考えると、同様の場がもっと必要だと感じていました」
入所待ち465人
高齢化した被爆者から入所希望が後を絶たなかった。開所2年後の県のまとめによると、入所待ちは定員の3倍超の465人に膨らんでいた。
県、市は73年に施設を増築し、定員を計250人に増やした。82年、「舟入むつみ園」と名付けるとともに、東区に「神田山やすらぎ園」を新設。92年には歌手の山本コウタローさんたちの支援もあり、安佐北区に「倉掛のぞみ園」を開いた。2007年には、民設民営で安芸区に「矢野おりづる園」が整備された。(下高充生)
(2025年4月17日朝刊掲載)