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社説・コラム

[論 昭和100年] 特別論説委員 岩崎誠 毒ガス兵器と日本

科学技術の暴走 どう歯止め

 昭和を代表する負の遺産が大久野島(竹原市)だろう。毒ガス戦で多大な犠牲が出た第1次世界大戦の反省から、100年前の1925年に使用を禁じる国際法ジュネーブ議定書ができた。同じ年に旧日本陸軍は敗戦国ドイツの科学者を招いて開発を加速し、4年後にこの島に毒ガス工場を置く。今も国内外に影響を残す非人道兵器の現実を見つめ直す。

 何度来たことだろう。竹原・忠海沖の大久野島に初めて渡ったのは、40年近く前だ。山内正之さん(80)と一緒に先週、周囲4キロの島を改めて一周した。元高校教諭で「大久野島から平和と環境を考える会」代表。環境省が所管する毒ガスの島の歴史を長年調査し、発信を続ける。

 秘密保持のため「地図から消された島」は今やウサギの島の異名の方が知られる。島外から持ち込まれ、繁殖したウサギが観光資源なのは確かで、平日なのに外国人ら観光客の多さに驚く。以前なら戦争の歴史を学ぶ学校単位の来島が盛んだった。「平和学習の島のイメージが変わった」と山内さんは心配する。

 戦後50年の節目に長期連載を走らせるなど大久野島を軸に日本の化学兵器の実態を追ってきた。本質はやはり戦争の愚かさを伝える島だと思う。毒ガス貯蔵庫跡や発電所など国史跡でもおかしくない戦争遺跡が環境省の手で見学可能な状態で残り、詳しい説明板もある。ウサギ観光に埋没するのはもったいない。

 島に学ぶべきものは多い。明治期に砲台を築いた芸予要塞(ようさい)跡を転用した毒ガス工場は第2次大戦末期の44年までの15年間に5種類の化学兵器を製造した。びらん性の猛毒イペリット(きい一号)や、くしゃみ性のジフェニールシアンアルシン(あか一号)などだ。島で働いた6800人ほどの大半に慢性呼吸器疾患などの後遺症をもたらした。

 その毒ガスが主に日中戦争の戦場に持ち込まれ、一部は実戦で使用された。戦後も中国と日本の双方で遺棄された毒ガスの被害が出た。足元の大久野島も平成の時代に残留ヒ素が問題化し、処理されている。

 こうした負の側面と加害の歴史にこそ目を向けてほしいと山内さんは願う。中国河北省の北坦村の旅から戻ったばかり。42年5月に日本軍があか一号とみられる毒ガスを地下道に投げ込み、村人や民兵800人以上の命を奪った現地で5回にわたり慰霊と交流を重ねる。ただ記憶を語れる住民はほとんどいない。

 高齢化が著しいのは大久野島の側も同じだ。国の健康管理手帳を持つ毒ガス障害者は昨年10月の時点で551人、平均年齢は約95歳。広島市が継承に手を打つ被爆証言と比べ、語り継ぐ方法が定まらないまま体験風化の危機に直面している。

実戦使用明らかに

 昭和100年、戦後80年の今こそ化学兵器の問題と向き合いたい。明治学院大国際平和研究所の松野誠也研究員と東京で語り合った。学生時代から毒ガス関連の史料を調査し、数々の論文や著書を世に出した。

 まだ未解明の部分は何なのか。松野さんが追い続ける一つが中国での実戦使用だ。これまでに陸軍の教育機関、習志野学校がまとめた戦場の使用例「化学戦例証集」が83年に米国で発見され、国際法に違反する致死性のイペリット使用を含む事例が断片的に明らかになっている。

 加えて彼が入手した新史料は動かぬ証拠だろう。毒ガス戦を担う迫撃第5大隊による39年7月の公式報告「戦闘詳報」。日本政府が曖昧な見解を重ね、実戦使用をはっきり認めないイペリットの「きい弾」を山西省の山岳地帯で計48発使用したことを明記する。しかも陸軍参謀総長の指示に基づき、現場で秘密裏に使用する方針が組織的に徹底されていた構図もうかがえる。「氷山の一角であり、全体像は分からない」

 もう一つ掘り下げるべきは日本が国際法に背を向け、毒ガス製造に前のめりになった過程だという。

 日本陸軍はドイツ、英国、フランスなどが国家総力戦を繰り広げた第1次大戦に衝撃を受けた。膨大な動員と大砲、航空機、戦車、そして毒ガス。ドイツは最初の塩素ガス使用に加えてイペリットの開発と使用で先んじ、報復の連鎖を招く。

 日本も追い付こうと陸軍科学研究所で研究に着手したが思うに任せない。そこで25年11月にドイツから招いたのが「毒ガスの父」として知られるハーバー博士の門下、メッツナー博士だ。講和条約で毒ガス開発を禁じられたドイツの事情を踏まえ、日本の製薬会社が雇用する形に偽装して…。列強の模倣が大久野島の毒ガス製造につながっていく。

 その中で民間化学メーカーとの関係が強まる。毒ガス工場の稼働と軌を一にして軍が技術供与した財閥系の工場が原料の製造を拡大した。陸軍がデュアルユース(軍民両用)を初めて導入したのが全ての毒ガスに欠かせない「液体塩素」。平時なら水道水の消毒や漂白に使われる工業製品が戦時に化学兵器となる。

 ただ日本の技術力は模倣の域を出なかった。米国の毒ガス報復を恐れて大久野島で生産を中止した後も陸軍は科学者たちを動員して新しい毒ガスを模索するが果たせず。同盟国ドイツが開発した神経剤のサリンやタブンにも発想は及ばなかった。

克服できない人類

 毒ガスの問題は古くて新しく、克服できないまま現代に残る。97年に化学兵器禁止条約が発効したのに人類は決別できず、シリアなど平気で使う国も出た。民間も容易に製造でき、オウム真理教のサリン事件は記憶に新しい。「加害と被害が表裏一体だった日本の化学兵器を通じて、戦争の歴史を検証することが、同じ過ちを繰り返さない土台となる」。松野さんの指摘に共感する。

 日本政府のデュアルユース推進の姿勢を見ると、科学技術を軍事転用する歯止めが平和国家でも弱まりつつあるように思える。科学者の良心を問い直し、先端テクノロジーが人を殺す手段として暴走することをどう防げばいいのか。その答えを早急に見つけなければならない。

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化学兵器 残る課題は

 第1次大戦中の1915年4月22日、激戦地のベルギー・イーペルでドイツ軍がフランス軍に塩素ガスを放射したのが世界初の化学戦だ。フランスや英国も毒ガスで応戦し、イーペルを語源とするイペリットも生まれて世界に拡散した。大量破壊兵器として国際社会が廃絶を誓いながら多くの課題を残す。

 日本の製造量 陸軍は29年に大久野島に開所した陸軍造兵廠(しょう)火工廠忠海兵器製造所を拠点に、米側の資料によると原液で6600トン超の毒ガスを製造し、福岡県の曽根製作所で砲弾に装塡(そうてん)するなどして約739万発の毒ガス兵器を生産した。海軍も43年に設置した神奈川県の相模海軍工廠でイペリット弾など7万発を製造したが、本土に配備して実戦使用はなかった。大久野島、曽根、相模の順に元従業員の健康被害は国の救済措置が講じられた。

 条約の実効性 25年のジュネーブ議定書は生産を禁じず、日米がすぐ批准しないなど実効性が乏しかった。ただ保有はしても国際社会の目と報復攻撃を恐れて使用を控える国々に対し、中国における日本の使用が突出した。サリンなどを開発したナチスドイツも実戦には使わなかった。

 戦後は米ソ両陣営が化学兵器を配備。その中でイラクが80年代のイランとの戦争で化学戦を強行する。93年に生産、保有、移転、使用を禁じる画期的な化学兵器禁止条約が成立。4年後に発効して国際監視機関も置かれたが、条約加盟のシリアは内戦で毒ガスを使った。北朝鮮などは未加盟のままだ。

 遺棄兵器 禁止条約に基づき、日本政府は中国に遺棄した毒ガス弾を処理する責務を負う。日本側が十数万発残ると推定する吉林省のハルバ嶺(れい)などで膨大な国費を投じて作業が続き、終わる見通しはまだ立たない。中国では40カ所以上で毒ガス兵器が見つかり、工事中に掘り出すなどして被害に遭う事故が続いた。救済スキームのないまま今に至る。

 日本国内も北海道から九州まで海域に投棄するなどした毒ガス兵器の発見が相次いだ。茨城県神栖市ではジフェニールシアンアルシンの原料が由来と推定される井戸水の汚染が発覚し、国は医療手帳を交付した。

 テロの脅威 「貧者の核兵器」と呼ばれ、国際法の網から漏れる組織によるテロのリスクは消えない。94年の松本サリン事件、95年の地下鉄サリン事件で罪のない人々の命を奪ったオウム真理教。サリンやVXガスなどを教団施設でひそかに製造し、野放しにした教訓は重い。

(2025年4月17日朝刊掲載)

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