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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1971年8月6日 首相初の平和式典参列

「遅きに失す」 認識示す

 被爆26年の1971年8月6日。広島市の平和記念式典が平和記念公園で営まれた。台風の影響で横殴りの雨に打たれる中、佐藤栄作首相が原爆慰霊碑に献花し、あいさつをした。47年に平和祭として式典が始まって以降、首相の参列は初めてだった。

 山田節男市長の平和宣言の後、佐藤氏はあいさつで「このような不幸を二度と繰り返さないことこそ、われわれ日本国民の悲願」と訴えた。被爆による広島の被害は「核の時代をいかに生きるべきかを示す」と述べ、被爆者の「福祉の増進」へ尽力を強調した。

 71年4月に昭和天皇と香淳皇后が三瓶山(大田市)での全国植樹祭への出席に合わせ、平和記念公園を初訪問。首相就任7年目の佐藤氏は5月、平和記念式典へ「万難を排して出席する」と表明した。広島市は65年以降、首相への出席要請を強めていたが、70年までは国会や外交日程を理由に厚相らの代理だった。

 ベトナム戦争の反戦運動が高まっていた時代。式典が迫ると、戦争への米軍介入を支持する佐藤氏の「出席阻止」を訴える学生たちが断続的にデモをした。8月6日付本紙朝刊は「首相、厳戒の中 広島入り」「過激派、駅へ突入 23人逮捕」と伝えた。式典中には、献花する佐藤氏に突進しようとする若者が護衛に取り押さえられた。

補償の意なく

 式典後、佐藤氏は原爆資料館を見学。動員学徒の衣服の展示を見ながら、広島で被爆したおいが1週間して亡くなったと明かした。前年に開所した原爆養護ホームの被爆者も見舞った。記者会見では、首相初の式典参列に関し「遅きに失した感がしないでもない」との認識を示した。

 広島の反応はさまざまだった。山田市長は、見送り時に佐藤氏が「被爆者対策はこれではいかん」と話していたといい、「希望が持てる」と受け止めた。一方で、原爆による死者への償いを含む国家補償の意思は示されないまま。「この26年間、流し続けたわしらの涙が1日やそこらでわかってたまるか」との遺族の声が本紙に載った。

「報復を期待」

 翌72年7月に首相を退いた佐藤氏は74年に「非核政策の推進」などを理由にノーベル平和賞を日本人として初めて受賞する。在任中の67年に国会で、核兵器の保有、製造、持ち込みを認めない「非核三原則」を打ち出していた。日本政府は70年2月、核を持つ米ソ英仏中の5カ国以外の保有を禁じる核拡散防止条約(NPT、70年3月発効)に署名した。

 ただ、米国の核の力を求めながらの「非核」だった。佐藤氏は65年1月の訪米時にマクナマラ国防長官と会談。その記録(2008年公開、外交史料館所蔵)によれば、中国と日本が戦争になった場合、「アメリカが直ちに核による報復を行なうことを期待している」と発言。先制使用も含め核による即時報復を求めた。

 米軍統治が続く沖縄については69年に「『核抜き、本土並み』を返還の基本方針」とする考えを示す。しかし、有事に沖縄への核持ち込みを認める合意を同年に米政府とひそかに結んでいた。

 その後の歴代首相では、中曽根康弘氏が83年から87年にかけて広島、長崎の式典に交互に参列。村山富市氏が94、95年に両式典へ出席し、以降、継続する流れをつくった。(下高充生)

(2025年4月18日朝刊掲載)

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