[ヒロシマドキュメント 1946年] 4月 母子、自宅を自力再建
25年4月20日
1946年4月。当時19歳の友田澄子さん(2021年に93歳で死去)が、広島市白島中町(現中区)に自宅を再建しようと動いていた。同所にあった旧宅は原爆で全壊全焼。家族3人も奪われ、母ひでさん(81年に86歳で死去)と2人だけが残されていた。
建設費は6千円。市復興局から4月19日付で資材が割り当てられ、ひでさんが大八車を引いて宇品へ取りに行った。町内会長名義で「自分所有ノ土地ニ今般建築スルモノナルコトヲ証明ス」と書かれた建築証明書も20日付で発行された。
母子は被爆後の生活拠点となっていた、牛田に所有する山小屋から焼け跡に通った。一連の書類を原爆資料館に寄贈した11年に澄子さんは「焼け跡で、涙を流しながら瓦を積み上げた」と説明。「再建したといっても掘っ立て小屋で、知り合いの大工さんに建ててもらった」
澄子さんは45年8月6日、働いていた広島城内の第五師団司令部で被爆。爆心地から約750メートルで、顔や脚にガラス片を浴びながら友人と牛田に逃げた。母は自宅の防空壕(ごう)で助かった。
一方、軍関係の仕事をしていた父の寅吉さん=当時(55)=は被爆して寝たきりとなり、10月28日に逝った。八丁堀の税務署近くにいた弟の宏英さん=同(16)=は高熱が出て8月27日に死去。市立中(現基町高)1年生だったもう一人の弟貞成さん=同(12)=は土橋付近への動員中に行方不明になったままだった。
澄子さんは同じ場所で何度か家を建て直しながら晩年まで暮らした。孫の吉紀さん(49)=東広島市=は「子どもの頃には毎年、原爆罹災(りさい)者名簿を一緒に見に行きました」と振り返る。
46年度の市勢要覧によると、8月の調査で復興した建物を3万2242戸と報告。内訳は新築1585戸▽修理1万8486戸▽バラック建て1万2171戸―だった。爆心地近くの基町(現中区)では市が不足する住宅を建て始めた。公園用地にする計画がある中で広島県なども加わり、49年までに約1800戸の公設住宅が並ぶ。(山本真帆)
(2025年4月20日朝刊掲載)
建設費は6千円。市復興局から4月19日付で資材が割り当てられ、ひでさんが大八車を引いて宇品へ取りに行った。町内会長名義で「自分所有ノ土地ニ今般建築スルモノナルコトヲ証明ス」と書かれた建築証明書も20日付で発行された。
母子は被爆後の生活拠点となっていた、牛田に所有する山小屋から焼け跡に通った。一連の書類を原爆資料館に寄贈した11年に澄子さんは「焼け跡で、涙を流しながら瓦を積み上げた」と説明。「再建したといっても掘っ立て小屋で、知り合いの大工さんに建ててもらった」
澄子さんは45年8月6日、働いていた広島城内の第五師団司令部で被爆。爆心地から約750メートルで、顔や脚にガラス片を浴びながら友人と牛田に逃げた。母は自宅の防空壕(ごう)で助かった。
一方、軍関係の仕事をしていた父の寅吉さん=当時(55)=は被爆して寝たきりとなり、10月28日に逝った。八丁堀の税務署近くにいた弟の宏英さん=同(16)=は高熱が出て8月27日に死去。市立中(現基町高)1年生だったもう一人の弟貞成さん=同(12)=は土橋付近への動員中に行方不明になったままだった。
澄子さんは同じ場所で何度か家を建て直しながら晩年まで暮らした。孫の吉紀さん(49)=東広島市=は「子どもの頃には毎年、原爆罹災(りさい)者名簿を一緒に見に行きました」と振り返る。
46年度の市勢要覧によると、8月の調査で復興した建物を3万2242戸と報告。内訳は新築1585戸▽修理1万8486戸▽バラック建て1万2171戸―だった。爆心地近くの基町(現中区)では市が不足する住宅を建て始めた。公園用地にする計画がある中で広島県なども加わり、49年までに約1800戸の公設住宅が並ぶ。(山本真帆)
(2025年4月20日朝刊掲載)