[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1972年6月 中島地区の復元図
25年4月19日
壊滅前の街並み後世に
1972年6月。広島市の平和記念公園を見渡せる原爆資料館のロビーに「旧中島地区復元図」が取り付けられた。商店、寺院、銭湯、映画館…。かつて公園内にあった中島本町、材木町、天神町、元柳町の戸別地図が縦4メートル、横3メートルの銅板に刻みつけられ、一軒一軒の民家の名字や店の名前まで表されていた。
設置を見守る
元住民でつくる広島平和公園爆心復元委員会が製作。事務局長の川崎共之さん(85年に66歳で死去)たちが数珠を手に設置を見守った。川崎さんは後の取材に「復元記録は、原爆投下がいかに無差別で残忍かを広く知らせ、平和を訴えるためです」と思いを語った。
10代だった31年、中島本町の電機店「クラモト商会」に就職。店は繁華街の中島本通りにあり、住み込みで働いていた。「広島原爆戦災誌」(71年刊)によれば、4町と南側の周辺地域には被爆前、推計で1330世帯、4370人が暮らしていた。
45年8月6日、米軍の原爆により爆心地に近い中島本町は壊滅した。燃料会館(現レストハウス)の地下室で被爆した野村英三さん(82年死去)が奇跡的に生き延びるが、さく裂時に町内にいた人は「即死者約一〇〇%」(戦災誌)とされる惨状だった。
川崎さんは投下時、召集されて九州におり、2日後に軍務で広島市内に入った。復員後は段原地区(現南区)で電機店を営んだが、町への思いは消えなかった。56年、自身を含む元住民たちが、平和記念公園の一角に「平和乃観音」を建立。「嗚呼(ああ) 中島本町の跡」と台座に刻んだ。
さらに町の原爆犠牲者の名簿作りを進めた。次男洋典さん(74)=南区=は「原爆で亡くなった近所の人たち、店に来てくれた人たちの顔が思い出されたからでしょう」。疎開先などで助かった関係者を捜して情報を集め、被爆前の町の地図作りも始める。
活動が本格化
活動は、60年代後半に広島大やNHKが市民の協力を得て「爆心地復元調査」に乗り出すと一層本格化。中島本町を含む爆心地から半径500メートルで壊滅した町を戸別地図で再現し、被害実態に迫ろうとする試みだった。それぞれの町の元住民たちが集まり、互いの記憶を寄せ合って家や店の並びを紙に書き出した。
4町の元住民の有志が爆心復元委員会を結成したのは68年。公園を訪れる人に被爆前の姿と被爆による悲惨な被害を伝えようと銅板製作を企画し、市にも協力を求めた。調査で得た計約700世帯の情報を基に、市の補助や寄付金で作り、72年7月に除幕した。
川崎さんは「町の復元図は被爆体験を子どもたちに継ぐことでもある」と願っていた。元住民や遺族でつくる中島本町平和観音会は毎年8月6日、観音像前で慰霊祭を営み、洋典さんは副会長を務める。そばには、中島本町の「原爆死没者芳名」の碑が設けられ、438人の犠牲者を刻む。
被爆前の町の復元調査は、69年度から市が予算を投じて爆心地から2キロ以内に対象を広げて進めた。中島地区の復元地図も銅板製作時点で世帯の情報を十分に得られなかった区画が一部にあり、報道機関は被害実態に迫る取材を続けた。(編集委員・水川恭輔)
(2025年4月19日朝刊掲載)