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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1972年8月5日 マーシャルのヒバクシャ

核兵器廃絶へ連帯訴え

 1972年8月5日。米国による中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁での核実験で被曝(ひばく)したジョン・アンジャインさんが、初めて広島市を訪れた。当時50歳で、市内での原水禁国民会議の原水爆禁止世界大会に出席。「広島や長崎の被爆者と連帯し、恐ろしい被害をもたらす核兵器をなくすために闘っていきたい」と訴えた。

知られぬ被害

 54年3月1日、米国がさく裂させた水爆の爆発力は広島へ投下した原爆のおよそ千倍相当。ビキニの東約170キロに位置し、86人が住むロンゲラップ環礁にも大量の「死の灰」(放射性降下物)が降り注いだ。マグロ漁船「第五福竜丸」の被曝により日本で原水禁運動が広がる一方、現地の被害は十分知られていなかった。

 原水禁は、71年8月の世界大会に「ミクロネシア代表」の若手運動家が出席したのをきっかけに、12月にマーシャルへ調査団を派遣。信託統治する米国からロンゲラップなどへの立ち入りを拒まれたが、現在の首都マジュロで聞き取り、大会への「ヒバクシャ」の参加機運を高めた。

 ロンゲラップのリーダーだったアンジャインさんは、72年8月2日に羽田に降り立つと都内で記者会見。「3月1日」を証言した。

 自宅前で朝のコーヒーを飲んでいると、西の空に突然雷のような光が走った。間もなく爆発音が聞こえ、しばらくして熱風が吹くとともに白い粉のようなものが降り、コーヒーの中にも入った。昼近くになると、体が変な感じになり夜には全身に痛みが走り、胃が焼けるように痛んだ―。

 広島での大会に合わせ、平和記念公園(現中区)で原爆慰霊碑に献花。原水禁の森滝市郎代表委員と共に広島原爆病院(同)も訪ね、「私も核の被害者。早く元気になってください」と入院患者に花束を贈った。

 ただ、帰国後の11月、1歳で被曝して白血病を患っていた息子レコジさんを亡くした。まだ19歳だった。

 その後、弟のネルソンさんたちも来日し、核被害者への支援や核兵器の廃絶を訴えた。74年には日本のジャーナリストとしていち早く前田哲男さん(86)=埼玉県=たちがロンゲラップを取材し、住民の被害を伝えた。日本原水協も断続的に代表団を送り、被害を掘り起こしている。

 核実験を巡っては、広島市は68年9月に、同じ太平洋で実施したフランスに「人類の全面的破滅をもたらす」と初の抗議文を送付。以降は国を問わず核実験が報じられるたびに送った。二つの広島県被団協などは原爆慰霊碑前に座り込んで抗議を示し、73年8月は山田節男市長も参加した。

継がれた遺志

 一方で74年にインドが初の核実験に踏み切るなど核兵器の拡散は止まらなかった。アンジャインさんは72年の大会以降も来日して原水爆禁止を呼びかけ続け、2004年に83歳で亡くなった。

 めいのアバッカさん(58)は「ジョンは全ての親が核兵器のない環境で子どもたちと充実した人生を送ることを願ったが、かなわなかった」と無念をかみしめる。「日本の人々と協力することで、米国に対し、公正で正義に基づいた振る舞いを求める声が大きくなると信じていました」。遺志を継いでいる。(下高充生)

(2025年4月20日朝刊掲載)

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