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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1973年2月 原爆供養塔の遺骨

遺族を捜し 相次ぎ返還

 1973年2月6日。中国新聞朝刊に「被爆死の娘、遺骨で帰る」と見出しが躍った。広島市の平和記念公園(現中区)の原爆供養塔に安置される少女の遺骨が、名前を手がかりに72歳の母親の手に抱かれた。45年8月6日、少女は建物疎開作業に出て被爆し、家族は行方をつかめずにいた。

 「28年ぶり また見つかる」(73年2月24日付朝刊)「28年ぶり家族の胸へ」(5月12日付朝刊)。この年、同じように名前などの情報がありながら、引き取り手が分からない遺骨の返還が相次いで報じられた。そのたびに、遺族を捜し出した「主婦」の佐伯敏子さん(2017年に97歳で死去)が紹介された。

 米軍による原爆投下後、佐伯さんは身を寄せていた伴村(現安佐南区)から家族を捜すため市内に連日入ったが、路上で助けを求める人に何もできなかったのを悔いた。自身は親類13人を原爆で失った。

 市が中心となって55年に今の供養塔を建立すると、自らの意志で草取りや掃除を始めた。「原爆納骨安置所」とも呼ばれていたこの地に、自身の親類も眠っていたと、やがて知る。69年、判明済みの遺骨の名前を読み上げて遺族を捜すラジオ放送をきっかけに、義母の遺骨を引き取った。翌年には、供養塔の名簿を見て義父も。

 72年の自著「十三人の死をみつめて」に、湧き上がった思いを記す。「供養塔の中で数万人の方々が今もお待ちになっておられることを知る者にとっては、(中略)なんとか、もっと、知らない人にも教えてあげ、せめてこの亡き人々の心を知ってもらいたい」

名簿と照らし

 73年ごろ、供養塔の遺骨のうち、1900体近くの名前が分かっていた。市は68年から原爆資料館でその名簿を公開していたが、基本は遺族からの申し出を待つ姿勢。一方、佐伯さんは学校などの遺族名簿を借りて供養塔の名簿と照らし合わせ、合致すると遺族に手紙を送った。

 こうした努力は、市を「積極的な方法」(73年6月の市幹部の発言)へ動かした。供養塔と原爆慰霊碑の名簿の照合などを始め、7月下旬には身元を特定できた遺骨31体を遺族に引き渡した。84年から市内の公共施設に供養塔の名簿の掲示を依頼し、翌年以降は、全国の自治体などにも送るようになった。

生徒らに証言

 佐伯さんは供養塔に40年以上通い、清掃を続けながら、その存在を伝えた。生前に聞き取りをした市民団体「ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会」代表の中川幹朗さん(66)=南区=は「最大で1日7回、供養塔の前で証言したと聞きました。いつも大きな声で、全力でした」。

 大阪府松原市立布忍(ぬのせ)小は40年余り広島への修学旅行と供養塔前での慰霊祭を続けている。80年に教員たちが佐伯さんの話を聞いたのがきっかけ。その一人、中島智子さん(68)=大阪府羽曳野市=は「佐伯さんの生き方から『何をするかが大事』と教わりました」。着想を得て作った「ヒロシマには歳はないんよ」など2曲は、慰霊祭で歌い継がれている。

 現在、供養塔に安置されている身元不明の遺骨は約7万人分とされる。名前が分かりながら遺族が見つかっていない人は813人いる。(下高充生)

(2025年4月22日朝刊掲載)

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