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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1974年11月 サッカーの「王様」

「来たからには」慰霊碑へ

 1974年11月26日。サッカーのブラジル代表で活躍し、「王様」と呼ばれたペレさん(2022年に82歳で死去)が広島市の平和記念公園を訪れた。カメラを手にしたファンが駆け付ける中、原爆慰霊碑に花輪をささげ、地元の子どもたちと記念写真に納まった。

 17歳で出場した58年のワールドカップ(W杯)から3度優勝を経験した世界的スター。72年5月には、ブラジルのサントスFCの一員として東京の国立競技場で日本代表を相手に2ゴールを決め、日本のサッカーファンを熱狂させていた。

 2年ぶりの来日は、東京や広島での青少年のサッカー指導のため。当時の本紙記事によれば、ペレさんは広島への機中で慰霊碑訪問を自ら望んだ。

資料館行けず

 献花後、「広島の被災はよく知っている。来たからには寄らずに帰れない」と取材に答えた。時間の都合で原爆資料館を見学できないのを残念がった。77年に引退した後は、知名度を生かして国連児童基金(ユニセフ)などの社会貢献活動に携わった。

 資料館の入館者は71年度に107万4465人となり、初めて100万人を超えていた。うち外国人は3・2パーセントの3万4645人。この頃、海外の著名人から、被爆者援護や原爆記録映画にも関心が寄せられた。

 71年9月、英国のロックバンド「レッド・ツェッペリン」は約700万円を被爆者援護資金として市へ寄付した。市内の広島県立体育館での慈善コンサートの売り上げ。広島公演は「グループの特別の要望」(当時の本紙)で実現し、約5千人が来場した。

 当時27歳でギタリストのジミー・ペイジさんたちメンバーは市役所で山田節男市長に寄付の目録を渡し、「戦争を知らない私たちの心の中にも人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある」(同)と語った。滞在中、平和記念公園も訪れた。

レノン夫妻も

 英国のロックバンド「ビートルズ」のジョン・レノンさん(80年に40歳で死去)と現代美術家の妻オノ・ヨーコさんは、67年に米国から日本に返還された映画「広島・長崎における原子爆弾の影響」に注目。海外で公開するため、フィルムの貸し出しを佐藤栄作首相に要請した69年12月の連名文書が外交史料館に残る。

 文書では「二度と繰り返さないために、広島と長崎で起きた残虐行為を世界に示すことは日本人の責任だ」と強調。文部省が一般公開用に作った日本語版は人間の生々しい被害をカットしており、ノーカットでの貸し出しを求めた。

 ベトナム戦争のさなかのこの年、レノン夫妻は「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」と書いた看板を世界各地の大都市に掲げるなど反戦の訴えを強めていた。日本政府はフィルムの貸し出しに応じなかった。(編集委員・水川恭輔)

(2025年4月24日朝刊掲載)

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