[記者×思い] 核廃絶 理想と呼ばないで 東京支社編集部 宮野史康
25年4月24日
1日12時間寝るのが理想の37歳。
会見室から出てきた岩屋毅外相は、私の腰にそっと手を回すしぐさで「気持ちは分かるよ」とつぶやいた。2月18日夕。記者会見で核兵器禁止条約の第3回締約国会議へのオブザーバー参加を見送ると表明した直後だった。被爆地の記者を思いやるような姿勢に、この間の検討の本気度を垣間見た。
でもね、国には安全保障の責任があるんだ―。言外にそんな思いがにじんでいた。日本は80年前、自ら始めた米国との戦争の末に原爆投下を受けた。会見で聞いた外相の考えを要約するとこうなる。「核廃絶は歴史的使命だが、国民の生命と財産を守るためには核抑止が不可欠だ」
しかし、核廃絶をきれい事のように捉えていないか。広島選出の岸田文雄前首相もこう言う。「核兵器なき世界という理想に向けて、たいまつをかざし続ける」。理想という言葉の選択に違和感を覚える。真剣に廃絶を目指していないようで、冷める。
なぜか。核廃絶は、生命と財産を守る現実的な安全保障政策だと考えるからだ。核兵器は一度使われたら取り返しのつかない被害をもたらす。そして、存在する限りいつかは使われる。ならば、その兵器を世界から消し去ろうとする取り組みは理想ではなく、必要だ。
米国の国連本部で核兵器禁止条約の第3回締約国会議が開かれていた3月上旬。石破茂首相は参院予算委員会で、米国の核抑止力の重要性を説き「抑止力という概念そのものは間違いである、と言われると議論にならない」と述べた。
「納得と共感」を掲げる首相らしくない。政府はこの間、北朝鮮や中国、ロシアの核戦力に対抗し、米国と核抑止力の強化を進めてきた。ならば、本当に核抑止が妥当なのかもっと考えるべきだ。核抑止が機能し続け、核兵器の使用を防げるという根拠はどこにあるのか。国防の根幹に位置づけるなら、当然、説明責任が伴う。
(2025年4月24日朝刊掲載)
会見室から出てきた岩屋毅外相は、私の腰にそっと手を回すしぐさで「気持ちは分かるよ」とつぶやいた。2月18日夕。記者会見で核兵器禁止条約の第3回締約国会議へのオブザーバー参加を見送ると表明した直後だった。被爆地の記者を思いやるような姿勢に、この間の検討の本気度を垣間見た。
でもね、国には安全保障の責任があるんだ―。言外にそんな思いがにじんでいた。日本は80年前、自ら始めた米国との戦争の末に原爆投下を受けた。会見で聞いた外相の考えを要約するとこうなる。「核廃絶は歴史的使命だが、国民の生命と財産を守るためには核抑止が不可欠だ」
しかし、核廃絶をきれい事のように捉えていないか。広島選出の岸田文雄前首相もこう言う。「核兵器なき世界という理想に向けて、たいまつをかざし続ける」。理想という言葉の選択に違和感を覚える。真剣に廃絶を目指していないようで、冷める。
なぜか。核廃絶は、生命と財産を守る現実的な安全保障政策だと考えるからだ。核兵器は一度使われたら取り返しのつかない被害をもたらす。そして、存在する限りいつかは使われる。ならば、その兵器を世界から消し去ろうとする取り組みは理想ではなく、必要だ。
米国の国連本部で核兵器禁止条約の第3回締約国会議が開かれていた3月上旬。石破茂首相は参院予算委員会で、米国の核抑止力の重要性を説き「抑止力という概念そのものは間違いである、と言われると議論にならない」と述べた。
「納得と共感」を掲げる首相らしくない。政府はこの間、北朝鮮や中国、ロシアの核戦力に対抗し、米国と核抑止力の強化を進めてきた。ならば、本当に核抑止が妥当なのかもっと考えるべきだ。核抑止が機能し続け、核兵器の使用を防げるという根拠はどこにあるのか。国防の根幹に位置づけるなら、当然、説明責任が伴う。
(2025年4月24日朝刊掲載)