[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1975年4月1日 放影研発足
25年4月25日
被爆者や2世 影響調査
1975年4月1日。米国が原爆投下2年後に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)が改組され、財団法人の放射線影響研究所(放影研)が発足した。米国と日本が運営費を折半する「日米対等運営」で、広島市の比治山(現南区)の研究施設を引き継いだ。
ABCC継ぐ
先立つ3月28日、ABCCは閉所式を実施。L・R・アレン所長は「研究プログラムは、すべて放影研が継承する。原爆の影響について未知の恐怖を取り除くため、誇りをもって再出発しよう」とあいさつした。放影研の理事長には放射線治療が専門の山下久雄・慶応大教授が就き、アレン氏も副理事長に納まった。
ABCCは占領期の47年に広島市、48年に長崎市に研究所を開設した。50年に「寿命調査」を始め、被爆者約12万人の死因を追跡。72年の寿命調査第6報は「死亡率の増加は、白血病について特に顕著」「がんによる死亡率も高線量被曝(ひばく)群において上昇を示した」とし、がんの部位ごとの影響などを調べ続けていた。
一方で、被爆者たちの間では「調査すれども治療せず」との批判が根強かった。軍事的効果に関心を寄せた米軍の原爆調査に端を発した組織の上、米国は核戦力の増強を続けており、「核戦争に備えて被爆者をモルモットにしている」と反発する声もあった。
ABCCの調査には48年から厚生省所管の国立予防衛生研究所も加わったが、米側が運営を主導し、予算の多くを負担していた。ただ、金とドルの交換を停止した71年の「ニクソンショック」などで米財政が悪化。日米両政府は73年以降、ABCCの在り方を巡る公式交渉を進めた。
日本側は運営を少なくとも対等な形に改め、「一般市民の理解と協力」に基づく研究を進めるべきだと主張した。米国側は財政面で日本の負担増を要求した。発足した放影研は、調査を「平和的目的」「被爆者の健康保持・福祉に貢献するとともに、人類の保健の向上に寄与する」と位置付け、地元の意見を聞く協議会を始めた。
染色体検査も
引き継いだ事業には、被爆2世の染色体異常などの検査があった。ABCC時代には広島と長崎の新生児計約7万7千人を対象に障害の有無などを調べていた。
70年代、被爆者で放射線の影響が認められている病気を2世が発病する事例が報道などで伝えられた。被爆者の名越(なごや)操さん(86年に56歳で死去)は戦後生まれの息子を7歳で白血病で亡くし、体験記を出版した。
被爆2世が就職し、労働組合に関わり始めた時期。遊川和良さん(78)=安芸区=は73年に全電通被爆二世協議会ができると代表に就いた。「親世代は自らの援護を求める活動に忙しく、子への差別につながる不安もあった。それなら当事者から声を上げようと時代に求められた」
労組などは2世の健康調査を開始。広島県と市は73年に健康診断を始め、国も79年度に続いた。
放影研は今も2世のがん発生調査などを続ける。「これまでの限りでは遺伝的な影響は見いだされていない」とホームページで説明し、こう続ける。「この調査集団はまだ比較的若いので、結論を出すには更に数十年間の調査が必要であると思われます」(山下美波、下高充生)
(2025年4月25日朝刊掲載)