[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1945.8.6~2025 1978年3月 「孫振斗裁判」最高裁判決
25年4月30日
「原爆医療法は国家補償の趣旨を併せ持つ」
在外被爆者援護 扉開く
1978年3月30日、韓国人被爆者の孫振斗(ソン・ジンドウ)さんが被爆者健康手帳交付を求めた裁判で最高裁は原告勝訴の判決を出した。原爆医療法は、「国家補償の趣旨を併せ持つ」(判決)。日本社会の構成員のための「社会保障」と主張して被爆者援護と戦争責任とを切り離す、日本政府をただす形になった。朝鮮半島を植民地とした日本の歴史的責任を考える市民が孫さんを支え、判決は政府が背を向ける在外被爆者援護の扉をこじ開けていく。(編集委員・水川恭輔、山下美波)
「日本で治療を」 密航の記事が始まり
1970年12月8日。中国新聞に佐賀発の共同通信の配信記事が載った。船で密入国を図り、漁港で逮捕された韓国船の乗組員15人のうち1人が「広島で被爆したので、日本で治療するため密航した」と話している―。
「ちょうど太平洋戦争が始まった日。関係の記事がないか見ていたら、これは調べないといかんと」。当時、中国新聞社編集局次長の平岡敬さん(97)=広島市西区=は、すぐに思い立つ。65年に韓国で在韓被爆者の苦境をいち早く取材していた。
年末の休み、関心を持つ友人たちと拘置先の唐津署へ。記事にあった孫振斗さん(2014年死去)と面会した。当初は「どこまで信じたらいいか」と感じたが、被爆当時住んでいたと話す南観音町(現西区)で孫さんを知る人を捜し、事実関係を確認できた。一方で出入国管理令違反の罪で公判が迫っていた。
「理不尽への怒り」
「理不尽なことに対しての怒りがあった」。原爆問題に関心のある広島の学生が中心となって「孫さんを救援する市民の会」を結成すると、平岡さんも個人の立場で活動に加わる。東京のジャーナリスト中島竜美さん(08年死去)、福岡の市民運動家の伊藤ルイさん(96年死去)たちが呼応し、救援の全国組織もできた。
「あなたは彼を黙殺しつづけるのか」(ビラの呼びかけ文)。市民の会はビラを配り「保釈と治療」を訴えた。韓国併合以来、困窮や徴用のため海を渡り原爆に遭った在韓被爆者の歴史的背景から日本の責任を説いた。
孫さんは懲役10月で福岡刑務所に収監後、結核と原爆症の疑いを理由に刑の執行を停止される。福岡県内で入院し、支援者の協力を得て被爆者健康手帳の交付を県へ申請した。72年7月に県が国の方針に従い却下すると、取り消しを求めて福岡地裁に提訴した。
73年1月には市民の支援で、被爆者医療に携わる医師の診療を受けられる広島赤十字病院(現中区)に転院。「母国には私の家族も含めて不幸な生活を送っている被爆者がいる」(当時の本紙)と在韓被爆者の窮状を訴えた。自身は白血球減少がみられると診断された。
一方で被爆者団体などの組織的支援はあまり広がらなかった。市民の会は地道に裁判費用などを集め、平岡さんはそのために他媒体に原稿も書いた。若手弁護士3人が代理人を務め、過去例のない裁判を闘う法理を探った。
中心となった久保田康史さん(79)は、提訴時26歳。東京大を経て70年に東京で弁護士となり、関心を持つ入管問題で知り合った孫さんの支援者から依頼された。孫さんの裁判に関わる行政法は当時の司法試験では選択科目だったため精通する弁護士が少なかったとされるが、「もともと官僚になろうとしていて、丁寧にやっていました」。
「国家的道義」指摘
争点の一つが原爆医療法の法的性格だった。国の委任で交付事務を担う被告の福岡県は、日本社会の構成員の福祉の増進を目的とする「社会保障法」とし、不法入国者は不適用と主張。原告側は戦争をした国が、その結果責任として、被爆した人すべてを国籍や居住地の差別なく救済する「国家補償法」だと訴えた。
「原爆医療法に国籍条項がない点が、大きかった」と久保田さん。裁判所に出す準備書面は「朝鮮人に対する日本国家の責任」を詳述し、原爆投下の違法性、世論を背景に国家補償を訴える被爆者の要求が国を法制定に動かした経緯も書いた。
福岡地裁は「被爆者である限り」不法入国者も適用されると判断し、高裁も勝訴。最高裁は原爆医療法は社会保障だけでなく国家補償の性格を併有するとして交付を認めた。さらに、歴史的経緯を考えれば、孫さんへの法適用は日本の「国家的道義」とも指摘。久保田さんはこの点も「いい判決だった」と話す。
手帳を得た孫さんは後に在留特別許可を得て、日本で暮らす。一方、韓国をはじめ海外には、なおも日本の援護を受けられない多くの被爆者がいた。
--------------------
手帳交付・手当支給 徐々に広がる
「適用 国内に限る」国が通達
「孫振斗裁判」で、被爆者健康手帳の交付事務に当たる福岡県は、申請却下の段階から国の方針に従い、原爆医療法適用には国内への「居住関係」が必要とした。1974年3月、福岡地裁で原告勝訴となると控訴。一方で7月に、東京都は来日中の在韓被爆者からの申請に対し手帳を交付する方針を示した。
都への申請者は、広島で原爆に遭った辛泳洙(シン・ヨンス)さん(99年死去)。都内の病院の招きで、顔のケロイドの治療を受けるため74年6月に来日した。2年前に韓国原爆被害者援護協会(現韓国原爆被害者協会)の会長として来日し、韓国人被爆者への被害補償や、外国人被爆者全体への原爆医療法などの適用を求める要望書を三木武夫副総理に出していた。
社会党と共産党が支持基盤の美濃部亮吉氏が知事を務める都は、「人道的立場から当然」と独自判断で辛さんへの交付を決めた。都の動きに押された国は、海外に住む外国人被爆者について、治療目的で日本滞在が1カ月以上なら「居住関係」を認める方針を示した。
7月25日に手帳を受け取った辛さんは、自身は例外だとして「根本的対策」を訴えた。対して厚生省は3日前の22日、「402号通達」を出していた。在外被爆者が日本で手帳を得ても帰国すれば、手帳を持つ「被爆者」の法的地位は失われ、被爆者特別措置法による手当の受給権を失うとした。
「孫振斗裁判」が最高裁でも原告勝訴となると国は「国内に現在する」限りは理由を問わず原爆医療法を適用し、手帳を交付する考えを示した。80年11月には日韓政府間の合意に基づき、在韓被爆者が日本で入院治療を受ける「渡日治療」を始め、86年までに349人が参加した。
ただ、あくまで法適用を国内に限る枠組みだった。対象者は広島、長崎の原爆病院に入院し、そこを「現在地」に手帳を交付。原爆医療法に基づき自己負担なく治療を受けた。渡航費は韓国側が負担。日本にいる間は申請が認められれば手当を受けられたが、帰国後は402号通達に沿って打ち切られた。
最高裁判決翌年の79年1月には、社会保障制度審議会が判決の趣旨を踏まえて被爆者援護の基本理念を再検討するよう国に答申。厚生省は、専門家7人でつくる「原爆被爆者対策基本問題懇談会」を設ける。しかし、80年12月に出された意見書は現行施策をおおむね追認し、在外被爆者の問題は触れられもしなかった。
1974年7月22日付 厚生省局長「402号通達」
日本国内に居住関係を有する被爆者に対し適用されるものであるので、日本国の領域を越えて居住地を移した被爆者には同法(手当支給などを定める被爆者特別措置法)の適用がないものと解される
--------------------
申請や医療 市民が支える 通達巡り裁判も
韓国の原爆被害者は1967年に韓国原爆被害者援護協会を創設。70年代、訴えを受け止めた日本の市民による救援活動が広がっていった。
被爆者で高校教員だった豊永恵三郎さん(89)=安芸区=は72年、大阪でできた「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の広島支部結成に携わった。71年に研修で訪れた韓国で休日を使って協会の被爆者に会った。「韓国政府からも日本政府からも援護がなかった」
74年、市民の会の活動で韓国・釜山市に住む崔英順(チェ・ヨンスン)さんを治療に招いた。広島市の河村病院の河村虎太郎さん(87年死去)が受け入れに協力し、広島原爆病院でも治療を受けた。
豊永さんは、崔さんの被爆者健康手帳の取得を支援。益田市の益田高等女学校から広島市に動員されて被爆しており、豊永さんは当時の同級生を捜して証人を見つけた。74年12月、広島市から手帳を交付された。
84年には、河村さんたちが中心となって「在韓被爆者渡日治療広島委員会」をつくる。国の「渡日治療」で渡航費を韓国政府が負担していたのを疑問視。寄付を広く募って渡航費を含む費用全額を持ち、2016年までに延べ572人を受け入れた。
70年代から手帳に加え国内での手当受給が認められていく中、支援者はやがて帰国後の手当打ち切りを疑問視する。田村和之・広島大名誉教授(82)=東区=によれば、90年代に入って国が根拠とする「402号通達」の問題が強く意識されるようになり、韓国のほかブラジルや米国の被爆者の裁判闘争を支えた。
在韓被爆者の郭貴勲(クァク・クィフン)さん(22年死去)は98年、402号通達を理由に健康管理手当の支給が打ち切られたのは違法だとして国や大阪府を相手取り大阪地裁に提訴。一審に続き、02年の二審でも勝訴して国は上告を断念した。
その後、医療費支給を巡る最高裁判決(15年)などでも原告の在外被爆者が勝訴。判決理由はたびたび「孫振斗裁判」判決の「国家補償的配慮」が引かれ、孫さんの提訴から40年以上を経て在外被爆者への援護の壁は、ようやくほぼなくなったとされる。ただ、国交がない北朝鮮の被爆者が援護から置き去りになっているなど問題が残る。
<「孫振斗裁判」と関連の動き>
1970年12月 孫さんが密入国を図り佐賀県で逮捕される。広島で被爆し、治療を受けたいと訴え。広島で「孫さんを救援する市民の会」結成
71年1月 佐賀地裁唐津支部が、出入国管理令違反で懲役10月の判決
6月 福岡高裁が控訴棄却。福岡刑務所へ収監
8月 結核治療と原爆症の疑いを理由に刑が執行停止。福岡で入院
10月 福岡県に被爆者健康手帳交付を申請
72年7月 福岡県が手帳交付申請を却下
10月 却下取り消しを求め福岡地裁に提訴
73年1月 市民の支援で広島市の広島赤十字病院に転院。被爆者医療に携わる医師が検査
5月 刑の執行停止が取り消され、広島刑務所に収監。8月に刑期が終わり、長崎県の大村収容所に収容
74年3月 福岡地裁で原告勝訴の判決。福岡県は翌月控訴
7月 治療のため来日中の在韓被爆者、辛泳洙さんに東京都が被爆者健康手帳を交付。厚生省は、海外に住む被爆者が渡日して手帳交付を受けても帰国後は手当等の受給権は失権するとの取り扱いを指示(「402号通達」)
75年7月 孫さんの手帳裁判で福岡高裁が福岡県の控訴棄却の判決
76年1月 肺結核の悪化を理由に大村収容所から仮放免。福岡で入院
78年3月 最高裁が福岡県の上告棄却の判決。翌月、孫さんに手帳交付
79年6月 厚生省が「原爆被爆者対策基本問題懇談会」を設置
80年11月 日韓政府間の合意により、在韓被爆者の「渡日治療」開始
(2025年4月30日朝刊掲載)