[歩く 聞く 考える] 客員編集委員 佐田尾信作 ベトナム戦争終結50年
25年5月1日
「トンネル村」は何を伝える
共産圏の浸透を防ぐという大義名分で米国が内戦に介入したベトナム戦争が、終結から50年を迎えた。「民族の世紀」と「アメリカの世紀」が激突したと「ベトナム戦争」(中公新書)の著者松岡完は表現する。米政権はあろうことか核兵器使用を検討し、日本では沖縄などが米軍の前線基地と化していた。子ども心に戦場発の報道に接していた筆者は3月中旬に有志のスタディーツアーに参加し、ベトナム中部の戦跡を巡った。
ツアーは広島市南区のベトナム人起業家で1984年生まれのカオ・タイン・デインが発案し、昨年広島空港に就航したハノイ便経由でダナンへ。人口120万人の大都市だが、60年前、旧南ベトナム政府軍支援のため米軍が初めて上陸した地で、その後の「ソンミ村の虐殺」をはじめとする戦争犯罪が今では立証されている。
夕刻のダナンから車で4時間、南北ベトナムの旧軍事境界線に向けて北上した。人家も商店もまばらな赤土の大地が広がる。クアンチ省に深夜着いて翌朝は街の食堂で米粉麺を腹に入れ、ホーチミンルート(旧北ベトナム政府軍の補給路)を経てチュオンソン戦没者墓地へ。ダナンからマツダ車のハンドルを握るのはカオの兄カオ・スワン・フー。78年生まれの物理学者で休暇を1日割いて案内してくれた。戦没者墓地では「皆さんの犠牲の上に今の繁栄がある」と祈り「いつ、どこで亡くなったかも分からない身内を弔うため多くの人たちがやって来ます」。
次にビンモックトンネルへ。米軍の空爆下の住民が65年ごろから7年間掘り続けた総延長2キロ超、三層構造の「トンネル村」である。抗戦のための塹壕(ざんごう)だけでなく居住区、集会室、厨房(ちゅうぼう)、井戸などを備え、産院では17人が産声を上げたという。1本の坑道に出入り口が七つあり換気口も。実際に入ると立ったまま歩いて海岸線へ出た。
写真家の石川文洋は「ベトナム戦争と私」(朝日新聞出版)の中で抗戦する側の戦術を回顧している。トラックの修理工場は上空から索敵されないよう茂みに隠し、機械は地下壕に分散させる。ガソリンは草で覆った穴に小分けして貯蔵し、臨機応変に給油して集中爆撃を避ける。ジャーナリスト本多勝一も港湾都市ハイフォンで船荷を路上に散らす戦術を目撃し、まるで全土が青空倉庫だとルポした。東南アジアの小国が超大国に勝利した一つの理由だろう。
ビンモック周辺にはクラスター爆弾やナパーム弾など人に甚大な苦痛を与える爆弾をはじめ50万トンが投下された。B29日本本土空襲の3倍を超す物量。爆発物は国土の17%に残存して戦争終結後も不発弾で4万人以上が事故死し、ことし日本政府は5億円規模の地雷除去機材を提供した。猛毒のダイオキシンを含む枯葉剤の世代を超えた健康被害は言うまでもない。
だが「地球の歩き方」など今の日本のガイドブックに戦跡はほぼ登場しない。ダナンと隣のホイアンはリゾートビーチや山上の巨大テーマパーク、古代チャンパ王国の遺跡などによって紹介される。筆者はホイアンの夜の野外劇場で500人が演じる歴史劇を観賞した。寒村が17世紀ごろには海洋交易都市に発展する物語が幻想的に演じられ、行き交う民族の融和が強調される。近現代のフランス、日本、米国による植民地支配や侵攻はストーリーにはなかった。
元読売新聞ハノイ特派員の渡部恵子は共著「ベトナム戦争の『戦後』」(めこん)で南ベトナム解放民族戦線に共感した日本の「反戦世代」と今のベトナムの国民感情のずれを指摘。戦場で倒れた報道カメラマンの写真展が2000年にハノイで開かれた際、地元紙の扱いが読売の扱いより小さく市民の関心も薄かったと報告している。元共同通信ハノイ特派員の大熊慶洋も筆者の取材に「大都市の発展と裏腹に戦争の記憶を残すものはわずか。中国の脅威に対抗するため安全保障を含めてベトナムは米国とも緊密な関係を築いています」と答える。ただし「国民がベトナム戦争を忘れたかどうかは街で聞くといい」という一外交官の発言も引き、奥底に潜む記憶は消えないのだと付け加えた。
日本はベトナム戦争に自衛隊を送ることはなかったが、決して無関係とはいえない。12年の沖縄発のルポ「基地で働く」(沖縄タイムス社)には、戦地ですぐ使えるように砲弾に信管を装塡(そうてん)した、対ゲリラ戦訓練で敵兵の役として雇われた、ベトナム出撃機B52撤去を求める闘争が切り崩された―といった県民の証言が多数出てくる。ベトナム沖で米軍座礁艦船をえい航する船員として雇われた人たちもいた。本土では相模原市の在日米軍補給廠(しょう)から積み出す戦車を市民が阻止する闘争があった。
ベトナムの「勝者」の戦跡には伏せられた闇もあろう。それでも日本が高度経済成長を謳歌(おうか)していた時代に、同じアジアで泥沼の戦争が続いた事実を私たちが知る意味はある。「第三者の目で見てくれることが大切です」。カオ・タイン・デインの出発前の言葉を思い出した。(文中敬称略)
(2025年5月1日朝刊掲載)