[NPT準備委] 核廃絶は使命。このまま死ねぬ 被爆者の金本さん 亡き家族を思い演説
25年5月2日
「核廃絶は使命。このままでは死ねない」。その決意を胸に、広島で被爆した金本弘さん(80)=名古屋市=が4月30日、米ニューヨークの国連本部に集った各国の外交官を前に演説した。80年前のあの日、父に救われた自らの命の重みや姉の苦しみをかみしめ、今も世界から核兵器の脅威が消えないもどかしさをぶつけた。(ニューヨーク発 宮野史康)
来年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けた第3回準備委員会3日目。日本被団協の代表理事として非政府組織(NGO)セッションで真っ先に発言した。「核兵器を使ってはいけないという『核のタブー』が揺らぎ始めました。私たちは今、大変危険な世界に生きています」。口を大きく開き、言葉に力を込めた。
生後9カ月の時、15歳の姉妙子さんに背負われ、広島市の爆心地から2・5キロの己斐駅(現西広島駅)で被爆した。爆風に飛ばされ、口の中に詰まったがれきやガラスで息も絶え絶えに。近くにいた男性が逆さに抱え上げて防火水槽の中に突っ込み、泣き出すまで頰をはたいてくれたと姉から聞いた。
無数の重傷者がいる中、なぜ自分を助けてくれたのかずっと疑問に思っていた。真実を知ったのは昨年6月。前年に逝った姉が書き残した手記を見つけ、「父親に助けられた」と。父定雄さんは被爆2年後に57歳で亡くなり、記憶はない。家族を苦しめた原爆の話はタブーだった。
12歳だった別の姉、千代子さんは爆心地から1・5キロで大やけどを負い、左半身にケロイドが残った。「長生きできない」と家族すら結婚に反対。死産や就職の差別を経験した。2019年、肺がんで死ぬ間際「娘時代をまどうてほしい(元に戻してくれ)」と言い残した。
「いかに原爆が、ままならない人生を送らせたか。父や姉の気持ちを考えると、泣き出してしまう」。それでも体験の証言を続け、500人超の会員がいる愛知県原水爆被災者の会(愛友会)の理事長も務めてきた。
昨年12月には、ノルウェー・オスロであった日本被団協へのノーベル平和賞授賞式に出席。被団協や被爆者の証言活動を高く評価されたが、被害の実態がまだまだ知られていないとも感じた。
準備委では、核抑止を正当化する発言も飛び交う。「被爆者は生きているうちに核兵器廃絶をと強く願っています。無期限に進展のない議論を続けるのでしょうか」。問いかけて演説を終えると、議場を見つめた。
(2025年5月2日朝刊掲載)
来年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けた第3回準備委員会3日目。日本被団協の代表理事として非政府組織(NGO)セッションで真っ先に発言した。「核兵器を使ってはいけないという『核のタブー』が揺らぎ始めました。私たちは今、大変危険な世界に生きています」。口を大きく開き、言葉に力を込めた。
生後9カ月の時、15歳の姉妙子さんに背負われ、広島市の爆心地から2・5キロの己斐駅(現西広島駅)で被爆した。爆風に飛ばされ、口の中に詰まったがれきやガラスで息も絶え絶えに。近くにいた男性が逆さに抱え上げて防火水槽の中に突っ込み、泣き出すまで頰をはたいてくれたと姉から聞いた。
無数の重傷者がいる中、なぜ自分を助けてくれたのかずっと疑問に思っていた。真実を知ったのは昨年6月。前年に逝った姉が書き残した手記を見つけ、「父親に助けられた」と。父定雄さんは被爆2年後に57歳で亡くなり、記憶はない。家族を苦しめた原爆の話はタブーだった。
12歳だった別の姉、千代子さんは爆心地から1・5キロで大やけどを負い、左半身にケロイドが残った。「長生きできない」と家族すら結婚に反対。死産や就職の差別を経験した。2019年、肺がんで死ぬ間際「娘時代をまどうてほしい(元に戻してくれ)」と言い残した。
「いかに原爆が、ままならない人生を送らせたか。父や姉の気持ちを考えると、泣き出してしまう」。それでも体験の証言を続け、500人超の会員がいる愛知県原水爆被災者の会(愛友会)の理事長も務めてきた。
昨年12月には、ノルウェー・オスロであった日本被団協へのノーベル平和賞授賞式に出席。被団協や被爆者の証言活動を高く評価されたが、被害の実態がまだまだ知られていないとも感じた。
準備委では、核抑止を正当化する発言も飛び交う。「被爆者は生きているうちに核兵器廃絶をと強く願っています。無期限に進展のない議論を続けるのでしょうか」。問いかけて演説を終えると、議場を見つめた。
(2025年5月2日朝刊掲載)