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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1978年10月 基町の再開発完成

バラックから高層群へ

 1978年10月。広島市基町(現中区)の中央公園で、再開発事業の完成式典が開かれた。戦後も長くバラック群が残っていた本川東岸近くに計4566戸の高層アパートが建ち、公園も整備。知事や市長、地元住民が出席して除幕された碑には「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」と刻まれた。

応急住宅1800戸

 明治期から次々と軍の施設が設けられた基町は45年8月6日、米軍の原爆投下で壊滅。跡地に、市中心部で家を失った多くの市民のため住宅営団や広島県、市が戦後早くから応急住宅の建設を進めた。およそ2年間で約1800戸ができた。

 なおも住宅不足は続いた。被爆、海外からの引き揚げ、道路や公園の建設に伴う立ち退き…。行き場のない人は河岸緑地などの公共用地に建てたバラックに身を寄せ、本川東岸が特に目立った。

 68年10月に県と市が始めた調査では、基町地区の河川敷などの「不良住宅」は計2600戸あり、2951世帯8694人が住んでいた。うち河川敷は1065世帯。また955世帯は被爆者が含まれた。

 基町でも、老朽化した公営住宅は県・市営の鉄筋中層住宅へ建て替わったが、一部のバラック群は取り残されていた。本川東岸は「原爆スラム」と呼ばれ、新聞もそう報じた。

 山本澄子さん(88)=中区=は60年代に横川(現西区)から基町のバラックへ家族4人で移り、喫茶店を開いた。結核を患った長男満晴さん(63)=同=の治療費を稼ぐため。飲食業は初めてだったが、原爆で父を失ってから商売経験はあり、「昼も夜もなく働いた」。近くの会社員たちで繁盛した。

 バラックは友人から借り、木工職人の夫が改装した。満晴さんは「よく天井に穴が開いてネコが落ちてきた。家同士の距離が近いから、2、3軒離れた住民の夫婦げんかも聞こえてね」と思い起こす。共同の炊事場やトイレがあり、隣人の交流も密だった。

 一方で、「基町地区再開発事業記念誌」(79年刊)によると、基町地区は61~76年に毎年のように火災が発生。67年7月にはバラックが密集する河川敷の149戸が焼けた。

遅れが顕著に

 各地の不法建物が撤去される中で基町の遅れが顕著になり、県と市は再開発に動く。69年、最高20階建ての高層アパート群の建設を本格化。記念誌によると、老朽住宅2600戸を撤去し、工事中は原爆犠牲者とみられる遺骨も掘り起こされた。住宅建設などに約226億円、関連施設整備に約32億円を投じ、小学校、幼稚園もできた。

 立ち退いた人たちは順次、高層アパートなどに移り、山本さん一家も入居した。屋上に遊歩道や庭園が設けられ「モダンで、住めるのがうれしかった」(澄子さん)。アパート中心部にできたショッピングセンターで店も続けた。(山下美波)

(2025年5月2日朝刊掲載)

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