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[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 1983年9月 被爆講話の開始

修学旅行生増加に対応

 1983年9月。広島市の外郭団体、広島平和文化センターから委任された被爆者8人が、中区の広島平和記念館で体験講話を始めた。従来は原爆資料館の職員3人が自らの被爆体験を伝えていたが、山陽新幹線の全線開通後に増え続ける修学旅行生たちに対応するために、態勢が整えられた。

50代の主婦も

 8人は資料館長の川本義隆さん(2002年に69歳で死去)や、市職員として「広島原爆戦災誌」の編さんに携わった小松清興さん(08年に72歳で死去)、「世界平和巡礼」に参加した松原美代子さん(18年に85歳で死去)たち。その中に、当時50代の主婦吉岡満子さんもいた。

 手記などによると、吉岡さんは18歳の時に三篠本町(現西区)の勤務先で被爆した。建物疎開作業に出た母は行方不明に。大やけどを負った旧制崇徳中2年の弟は約40日後に逝った。上の弟も被爆から31年後に死去。79年、原爆をテーマにつづった自身の詩集を全国の学校に贈ったのを機に、被爆体験を語るようになった。

 「人間の痛みがわかる心を。一足飛びに『反対』を叫ばなくても。まず、自分らの周りに何が起きているのか。底辺に苦しんでいる人たちがいることを知りましょう」。核兵器廃絶の方法を尋ねる若者には、こう答えた。84年6月に57歳で急死する前日も大阪の中学生たちに証言していた。後日、訃報を聞いた生徒たちは追悼文を寄せ「戦争を起こしてはいけない」などと誓った。

入館者数急増

 資料館の入館者数は、山陽新幹線が全線開通した翌75年度、前年度比42・3%増の125万3145人と急増した。修学旅行などの団体も増え、広島平和文化センターの被爆者講話は開始の翌84年度に小中高校など370件6万2849人を数え、86年度には462件8万854人と伸びた。

 これに伴い、新たに証言活動を始める団体や個人も出てきた。活動充実のための情報交換や研修の場として広島平和文化センターは87年、「被爆体験証言者交流の集い」を発足。10月の初会合には広島平和教育研究所や広島県原爆被爆教職員の会など13団体と個人の計約100人が出席した。

 寺前妙子さん(94)=安佐南区=は84年に広島平和文化センターの証言者になった。進徳高等女学校(現進徳女子高)3年生だった15歳の時、学徒動員中に爆心地から550メートルで閃光(せんこう)を浴び、左目を失っていた。

 建物疎開作業に動員された県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年生の妹恵美子さん=当時(13)=を奪われ、級友も犠牲になった。「原爆でけがを負ってから生きる事への関心がなくなっていたが、これではいけないと。私は命を与えられたのだから」

 初めて人前で体験を話したのは17歳の時。他校の教員から依頼を受けた。「級友や後輩、妹たち多くの動員学徒の犠牲を広く知ってほしい」。今もその一念で語り続けている。(山下美波)

(2025年5月7日朝刊掲載)

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